闇を超克する、その機制 |
「光は主体となる以前に闇に染まる。」
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【初発の戸惑い】 前述したように、 数年前までの私のセガンティーニ経験は、まったく限定的なのである。初めてセガンティーニの絵を眼にしたのは、ウィーンの「Österreichishe Galerie・Belvedere」 のことで、たった1枚の絵、《The Evil Mothers》(図1)を見ただけだった。一度ベルヴェデーレが工事中で見ることがかなわなかったことがあるけれども、三度ほどその絵を見る機会があった。他のセガンティーニの絵があったかどうか、定かではない。《The Evil Mothers》の印象が、それだけ強かったのである。
罪深き母たちは、立ち枯れ(冬枯れ?)の樺の木(だと思う)に繋がれ、樺の木は厳冬の凍り付く大地に繋がれ、児が乳を求めているのに無関心で、欲望に身を委ねてエクスタシーに達しているかのように身をくねらせている。 そんなふうに考えて、私のたった1枚のセガンティーニ経験は、誤りを前提にしているとはいえ、それなりに完結し、ある感動も覚えていたのだ。 2年ほど前、たしか倉敷市の大原美術館の所蔵品展が宮城県美術館で開催され、妻と出かけた。そこで、私自身としては2枚目のセガンティーニを見たのである。図2の《アルプスの真昼》である。 白樺か岳樺、いずれにしても樺らしい樹木が共通しているものの、《アルプスの真昼》から受ける印象は《The Evil Mothers》とはほとんど真逆である。
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セガンティーニにはこのような絵もあるのだ、そんなふうに幾分は驚いて、《アルプスの真昼》の写真複製をミュージアムショップで求め、あり合わせの額に入れてしばらくは眺めて暮らしたのである。 情感のまったく異なる二つのセガンティーニに少し戸惑ったというのは事実だが、ごく軽微なものである。まったく当たり前のことだが、もともとたった二枚の絵を見ただけで、セガンティーニの画家としての統一的なイメージを造ろうとすること自体ありえないのである。まぁ、いずれ彼の画業のかなりの部分に接することができれば、自然と解消するものだろう、とたかをくくっていた。 【セガンティーニ展に出かけるまで】 それでもセガンティーニは気になる画家だったわけで、県立図書館や市立図書館で検索したが、適当な本は1冊もない。市内の本屋巡りもしたが、「フェルメール」などの本は山ほどあるのだが、セガンティーニ本はないのである。これは、ハンマースホイを気にしていた時と全く同じ状況である。 |
【戸惑いと混乱の発展】 |
この二組の対照的な絵は、セガンティーニの画歴のなかでは、ほぼ同時期に描かれており、セガンティーニは二つの非常にかけ離れた(と私には思える)モチーフを同時に抱えていたことになる。 |
前述したように、セガンティーニが「薄暮の画家」から「光の画家」へと変わる時期は、1986年前後、ブリアンツァ地方からアルプス地方へ移り住む時期に相当する。
つまり、セガンティーニは本来的に「光の画家」であって、ブリアンツァ地方がたまたま暗い地方だったから、やむを得ず暗い絵を描いたのだ、というのである。
シュトゥッツアーの語るブリアンツァ地方と真逆のイメージである。もちろん、津田は旅人として訪れているので、たまたまこのような明るい日だったのかもしれないし、津田自身もまた、セガンティーニを本性的な「光の画家」として見ているらしいので、気候風土への思い入れや、強調が含まれている可能性もないわけではない。 |
むしろ、ここでは素直に、順時間的に考える方がよいのではないか。つまり、母親の死、ミラノでの孤独で荒れた少年時代を経験した青年画家が、図4のような「薄暗がりや、太陽が最後の光を投げかける夕方の情景」をことさら選んで描くことはごく自然なことではないか、と私は考える。
クインザックの見解は、シュトゥッツアーのそれよりはるかにシンプルで、ブリアンツァ時代のセガンティーニの暗いモチーフなどは気にもしていない。「画家としブリアンツァの景観をすっかり汲み尽くした」ので別の場所に移った、というのである。そういった意味では、シュトゥッツアーの考えと矛盾しているわけではない。私の読み過ぎ、穿ちすぎかもしれないが、クインザックは、汲み尽くしたブリアンツァの景観が薄暗ければ描かれた絵も薄暗いだろう、と暗に主張しているとしか思えないのである。 |
100パーセント純粋な風景画家という存在をごく観念的に想定して、目の前の景観がモチーフのすべて、そして、セガンティーニがそのような画家だと見なせるなら、クインザックの述べていることに異を唱えられない。だが、図1、図4、旧図録の表紙の他に聖母子像やアレゴリカルな《虚栄》のような絵も描くセガンティーニが、そのような抽象的にしか存在できないような風景画家であるはずがない。表出したいと願うモチーフが内在し、外在する景観(環境)となにほどか共鳴して、表現としての絵画が成立する。セガンティーニもまた、そのような画家であったはずだ。
たまたま、「アルプスの画家」の明るい絵の典型としての《アルプスの真昼》(図2)の写真複製を身近において眺めていたのだが、クインザックの記述をベースにして、あらためて見なおすと、明らかに気づくことがある。 |
つまり、わたしの仮説はこうである。彼は「闇」や「薄暮」の心性を抱えたまま、それを表現に至る内在性として抱えながらも、「光」や「明るさ」を表現する手法を発見し、確立したのだ。瀝青も緑も茶もけっして隠すことはなく「1オクターブか2オクターブ、パッと高くなるような」明るさを表現する技術を手に入れたのである。その手法とは「分割主義」である。千足伸行は、「分割主義」を次のように説明している。
セガンティーニは、明るいアルプスの自然といえども暗い色彩を内包していることを発見したのではないか。画家としての新しい自然理解が、新しい手法とあいまって、セガンティーニに訪れた。そうして、明るい外景を志向する感情と、幼い頃からしみこんでいる薄暮の感情を、全人格的に統一しつつ表現できる手段を獲得したのだ、と私は考える。
自然が「分割主義」を教え、「分割主義」が矛盾のない心性の表現を教えた。いや、そうではない。それらは一体となって、共時的にセガンティーニの中で達成されていったに違いない。もちろん、そこでは、「闇」や「薄暮」を抱えたまま、というのは正しくない。 「闇」や「薄暮」を否定することなく、超克することができたということではないか。。
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濃淡の色彩を並べ、互いになぞりあわせる「分割主義」の技法によって、セガンティーニは「光がなぞる闇」と「闇がなぞりかえす光(の輪郭)」を、一枚のキャンバスの上にともに描きとどめることができたのだ。 |
先に述べたように、セガンティーニが「光の画家」に変貌するためには、「分割主義」による闇と光のなぞりあいの発見が重要である。それは確かだが、「分割主義」を採用すれば自動的に明るくなるなどという機械主義的なことを言おうとしているわけではない。
そして、久保州子も書いている。
生まれいずるわが子(たち)を前に、その未来に光あれと願わない親がいるだろうか。幼年における母の喪失、少年期における父親からの遺棄、異母兄姉からの拒絶、その過程から形成された「闇」を克服することなしに、幸福にも形成しえた自らの家族を「明るい光」の下で守り、育むことが可能であろうか。 セガンティーニは、こうして「闇」、「薄暮」を超克し、「光」を求める志向性、エネルギーを持ちえたのであり、その心性と「分割主義」技法との奇跡的な調和、共鳴によって「光の画家」へと変貌を遂げたのである。凡庸ではあるが、子であり、父でもある私には、そのようにしか考えられないのである。 フィクションではあるが、画家としてのセガンティーニの変貌の機制とアナロジカルによく似たストーリーがある。『NARUTO -ナルト-』において、「火の国、木の葉隠れの里」の忍者・「うずまきナルト」がわが身に封印された「九尾の妖狐」に打ち勝ち、超克する話である。 [24]。 孤児であるナルトは、妖狐・九尾が自身の身体に封印されている忍者で、「人中力」と呼ばれ、いわば化け物として差別を受けながら孤独に育つ。忍者として里の滅亡の危機を救うヒーローになるまで成長するが、その闘いの最中に父である四代目火影(里の長)・「波風ミナト」が顕現し、また、冥想修業の時には母「うずまきクシナ」 が顕在化する。 九尾はもともと母・クシナに封印されていたのだが、ナルトを出産するさいに封印が解け、クシナは瀕死の状態でナルトを守り、父・ミナトは幼いナルトを信じ、希望を託しつつ、自分の命と引き換えに九尾をわが子に封印する。そうして、両親はナルトの誕生と引き替えのように命を落とす。 |
幻としての父と母の顕現によって、父と母の死を賭した愛情と、わが子への確固たる信頼によって託された希望として、現在の自分の生があることをナルトは確信する。そのようにしてナルトは、時間を遡って「家族」を発見するのである。そして、そのことによって生まれる強い希望と意思が「志向性」と「エネルギー」となり、修練の賜としての忍法が駆動機関となって、わが身に宿る「妖狐・九尾」を超克し、厖大な「闇のチャクラ」をわが身の力とすることに成功するのである。 結婚と我が子の誕生という家族形成を通じて、生い立ちがもたらす「闇」、「薄暮」の超克に向かうセガンティーニ、幻の顕現とはいえ、父、母、子の確固とした絆の認識を通じて、身中に封じられた「闇のチャクラ・九尾」の超克に向かううずまきナルト。その転移への契機と機制は、よく似ているのではないかと思ったのである。 【余剰としての象徴主義】 ここまで話が進んでくると、「共時的分極」と名付けた第2の問い、対極的な図1と図2の絵がなぜ同時期に描かれえたのか、という問いはあまり重要な意味を持たないことが分かる。図1の「暗さ」は、ブリアンツァ時代の「暗さ」から直接繋がってくるものではない。 「暗さ」、「薄暮」を超克しえた画家が、新しく切り開くことができた象徴的な世界の暗鬱さなのである。いわば「余剰としての象徴主義」の絵として、《The Evil Mothers》は描かれたのだ、と考えている。 いや、結論をそんなに急がず、評論家たちの言に聴き入りつつ、もう少しゆっくり歩を進めることにしよう。 まず、《The Evil Mothers(悪しき母たち、よこしまな母たち)》はどのような絵なのか、考えてみたい。
私は、はじめ、この絵を 「反母性」が耽美的に描かれていると、受容していた。それは「反母性」への懲罰ではあるが、「贖罪から救済に至る」母性としても描かれている。したがって、セガンティーニが抱いている「母性」の心象が問題になる。 |
大塚英志が言うように、「母性」言説は近代国家成立過程におけるナショナリズムとも密接に関連するもので、「「母性」とは、そのように国家によって政治的に求められるものである」 [27]というように、時代のイデオロギーとして考えなければならないことになる。クインザックはそこまで突っ込んで論じてはいないし、私にはその準備がない。 けれども、私は、セガンティーニの「母性」性をその時代性、イデオロギー的性向から論じる必要はないのではないか、と思っている。というのは、ここで必要なのは、《アルプスの真昼》(図2)や《水飲み場にて》(図6)と《The Evil Mothers》との関係性、セガンティーニの心性における位置取りなのだからである。 シュトゥッツアーの記述のうち、《The Evil Mothers》の主題を「反母性への懲罰」に重心を置くか、「反母性からの救済」に主眼を置くかでアプローチの仕方が異なるだろう。もちろん、「懲罰から救済へ」として、全体を考慮に繰り込むことが本道であろうが、これまで必ずしもそのようには議論されてはいない。最終的にはそう望むにしても、まず簡単な道から進もうと思う。 「母性」という観点からは、図8の《生の天使》のようないわば「聖母子像」に分類されるような絵を引き合いに出す向きがある。しかし、このような絵から画家固有の「母性」観を論じることは(少なくとも私には)難しい。
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それでもなお、《生の天使》を描くセガンティーニを素直に受け入れると、「反母性」を憎み、懲罰を主要な心情として《The Evil Mothers》に注ぎ込んだと考えたくなる。しかし、倫理、宗教心など、どのような心性にとっても真逆の価値を示す「聖母」と「懲罰に値するな邪悪な母」を、ともに樺の木の上にほとんど同じ構図で描くということがあろうか。
じつのところ、精神分析の話になると、私自身は多少困惑してしまうのだ。というのも、たいていの場合、精神分析は人間の心理に「過剰な意味」を付与するように感じてきたからで、具体的な事例の精神分析にはいくぶん保留をおきたい気分になるのである。 |
上の文中の《愛の結実》(1898年、ライプツィヒ造形美術館)は、図8の《生の天使》とほぼ同じ構図で、慈愛に満ちた母の膝に抱かれて、幸せそうな笑顔を浮かべた乳児が描かれている絵である。いっぽう、前述したように、酷寒の荒野で《The Evil Mothers》の乳児は、我が子を無視するしかない懲罰の母の乳房を求めているのである。ここでも同じことを言わざるをえない。真逆のモティーフを、同じ構図で描くことがありうるだろうか、と。
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この記述の中で、(とくに私にとって)重要なのは、(1)分割主義と象徴主義の関係についての指摘と、(2)セガンティーニの中ではリアリズムと象徴主義が共在していたという指摘である。 上の記述で千足が象徴主義の作品として取り上げた例のうち、もっとも早く描かれた絵、《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は、きわめて象徴的(駄洒落ではない)な作品である。「1986年に制作された《湖を渡るアヴェ・マリア》は、セガンティーニの代表作であるだけでなく、まさに世紀末のイコンといえよう」 [34] と評されるほど、セガンティーニの画業中で重要な位置を占める絵である。 1982年に初めて描かれた《湖を渡るアヴェ・マリア》のモティーフは、が、1986年になってあらためて分割主義の技法を用いて描き直される。それが図9の(第2作)の意味である。この絵は、セガンティーニが初めて分割主義を用いた絵であると同時に、明瞭な象徴主義的モティーフのもとに描かれた絵としても、セガンティーニ画業の中で劃期をなすものである。
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《湖を渡るアヴェ・マリア》(第1作)を見ることは叶わないのだが、1982年当時の画風と、上の久保の叙述からすれば、淡々としたリアリズムで描かれた「薄暮の夕景」として想像される。そして、前述したように、ブリアンツァ時代はセガンティーニが「家族」を発見しつつ、光の心象へ向かう準備期間であって、その中で自らの家族を描いたものとして 《湖を渡るアヴェ・マリア》(第1作)は描かれたのだ、と考えることができる。 |
セガンティーニという独立する精神、心性のなかに統合された2焦点として共在するのだから、主として片方に依拠しつつ、もう一方を参照するのはごく自然なことである。ただし、参照の強度によっては、もう一方の焦点も力学系に組み込まれるような実在源となる。軌道上に絵画主題があり、実在質量の大きい「光」の心象焦点に加え、さらにもう一方の「薄暮」の心象焦点に軽度とは言えある実在質量を措定すると、力学的には3体問題となって、図式的に軌道を指定することは困難になるが、措定条件によって、実に多様な軌道が発現することになる。 【余分な最後:付け足し】 |
つまり、象徴主義の度合の強い、というより、ほとんど寓意そのものと言ってよい作品である。正直にいうと、私にはどうもこの手の絵に対する受容力がないようなのである。アレゴリー感受力が弱いのである。
哲学者でもない、芸術家でもない、ましてや沈思家なんてどういうものかすら知らない。それでいて、アレゴリーもさっぱり……なんてなぁ。
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