揺動する心 |
【ハンマースホイ展】 2008年の秋、定年退職を翌春に控えた秋に「大琳派展」を見に上野の国立博物館に出かけた。妻と一緒である。老年に近付くにつれて、尾形光琳や酒井抱一の様式美というか、意匠化された絵画や工芸に惹かれるようになっていたので、楽しみにしていた展覧会であった。 |
さて、「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」と銘打たれた展覧会である。相変わらず人の多い東京に閉口しながらも、「奇妙な、静かな感動」の一日だったのは間違いない。ただ、テレビ番組で仕入れた知識や鑑賞の仕方と私の印象には微妙にずれがあって、ちょっとだけ考え込んでしまった。 【リルケは何を見たのか】 ギリシャ古代彫刻の素描から始まった展示に早々に出てくるのは《若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ》という画家21才の作品で、当時の肖像画の基準に合わないと言うことでコンピティションで落選させられ、デンマークの美術界で論争を引き起こしたとされる油彩画である。 |
私の本棚にあるリルケ全集の中の美術論 [2] や書簡 [3] のどこにもハンマースホイの名は見あたらない。簡単な手がかりはないようである。 |
そのような二重性が、ヴィルヘルム・ハンマースホイに固有、個別的な意味ををもたらしているのではないか。そんなふうに思えるのである。芸術表現と精神病理の問題ということである。 通りすぎる格子のために このうえなく小さく輪をえがいてまわる ただ 時おり瞳の帳(とばり)が 音もなく この豹の眼こそ、イーダの眼、ハンマースホイが現実と向き合おうとしながらも、現実の拒否へと志向する画家の眼そのものではないか。私の遠い記憶では、この詩は実存主義を強く示す詩として大いに論じられたのである。 |
絶対的な歴史や世界から語るヘーゲル的精神でもなく、客観理性から議論するカント的精神でもなく、明証的な直感から世界へ向かうエトムント・フッサールや、その弟子で実存主義の祖ともいわれるマルチン・ハイデッガーなどと同時代を生きたリルケが、内在性に沈潜しつつ、そこから表現を立ちあげるハンマースホイの芸術が醸し出す同じ時代の空気、実存主義的感性に共鳴したのではないかというのが、一つの私の推論である。 ごらん ふたりが同じ出来事を おのれの実存に正しく向き合う者は、内面の表現を同じくする。ひとりは精神病理のゆえに、ひとりは精神の言語化の辛い作業のゆえに--というのは言い過ぎだろうか。 |
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