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〔街歩き・東京 5〕 上野-入谷-浅草(1) 2010年1月19日 |
日帰りで、仙台から出てきて、東京の街をぶらぶらしている私には、〈帰るところ〉しかないのである。職をもっていた頃、私には〈行くところ〉がまだあるような気がしていた。幻想には違いないが、必須の幻想であったのだ、と思う。「〈行くところ〉がある」と信ずることは、職業人としての根拠でもあった。 都美術館を始点とする街歩きは、計画通りではあるものの、ささやかな反省から始まった。初めてのJR鶯谷駅に降りて、駅南口から忍ヶ丘中学校脇の坂道を上り、林光院などの寺群と国立博物館の庭園のあいだを通る道は、短いけれども、良い散歩道であった。しかし、計画は都美術館から、と決めていたので、一枚の写真も撮らず、やり過ごしてしまったのである。 |
上野からJR寛永寺陸橋を越え、入谷から浅草へ向かう、というのが今日の計画である。谷中霊園までは、幾度か歩いた道である [2]、というより、上野周辺は私でも何度も来ている。若いときは、東北本線の列車の待ち時間に、年経てからは博物館、美術館に来たついでに、周辺を歩いているのである。 芸大と博物館のあいだの道(Photo B)を、上野中学校の手前で左折すると、中学校に隣接する建物(Photo C 右手に見える)の玄関に「上野駅周辺滞留者対策訓練 仮宿泊所」という看板が立てられていた。 むずかしい看板である。「上野駅周辺滞留者」というのは、上野駅近辺にいるホームレスの人たちを指すのだろうとは、推定できる。続く「対策」も、その内容はともあれ、想定は出来る。行政として何らかの対策は必要だろう。その後の「訓練」が分からない。「訓練対策」なら、ホームレスの人たちが訓練される主体で、訓練によって就労し、定住拠点を獲得する、その訓練期間の一次的な宿泊施設という意味に素直に理解できる。 「対策訓練」ということは、ホームレス対策に従事する人たちを訓練し、その期間の宿泊施設という意味にしか理解できない。都なり区なり、担当の行政機関には、ホームレス対策に従事する人員が少なくて(まさかとは思うが)、新たな人員に福祉行政の訓練を要しているということなのか、まったく新しいホームレス対策をするために新規の訓練が必要ということなのか。 新たな訓練を受けた何某かの集団が、一斉にホームレスの人たちに向かっていく、などということを考える私は、想像力において偏頗なのだろうか。 |
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寛永寺を過ぎると、1本の柳が店先に植えられている茶道具屋さんの前である [2]。私のお気に入りの柳 [2] の冬姿は、長い年月、繰り返し選定を受け続けた骨格を露わにしていて、面白いことは面白いのだが、やはり少しさびしい。 言問通り(都道319号線)に出ると、たくさんの実を付けた夏みかんの木が塀越しに見えてきて、東北人の私には、やはり異地だと知れる。谷中霊園入口を過ぎて、言問通り(都道319号線)を北上する(正しくは北東へ、Photo D)。 このような街並みでは、どうしても古い木造の家が目につく。古い民家と大きな庭木がセットに現れると、無機的な時間と有機的な時間が一体化しているのは、もしかして珍しいことではないのか、と考えてしまう。「おっ、またあった」と思ったら、養寿院という天台宗の寺であった。
JR陸橋の手前に「寛永寺坂」という看板があり、その道脇に石仏があった。台座は真新しい御影石(たぶん)だが、石仏は古い浮き彫りの像であった。1体は地蔵尊だが、もう1体は観音像である。でも、地蔵像が観音像より大きいということを少し変に感じるのはなぜだろう。 |
陸橋を越えると。道はそのまま高架道となって東進している。橋を渡り終えたところに、高架道路から鶯谷駅に向かう線路沿いの道に下りる階段があって、そこを下る。 |
道なりに進むと小さな四つ辻に出る。そこを東に直進する道がPhoto Hである。Photo F の駅前商店街からここまでたった7分である。
右手のフェンスの中は空地で、そのむこうに永稱寺の本堂と不揃いの墓石のてっぺんが三々五々コンクリート塀越しに眺められる。左の垣根越しに見える瓦屋根は、西蔵院という寺らしい。この細路の終わりに「防災広場 根岸の里」と名付けられた広場がある。 火災や地震の時の避難のためだろうが、避難先としてつくられた公園様の広場が街中にあるのは珍しいのではないか。大概は、小学校や中学校、高校のグランド、既設の公園を避難先に指定して行政の仕事は終わりというが普通だろう(少なくとも仙台ではそのようだ)。 「防災広場 根岸の里」のおかげで、このあたりが根岸であることに気づいた。 月の根岸闇の谷中や別れ道 正岡子規 [6] |
「防災広場 根岸の里」は、歩いてきた細路と、それに直角に交差するやや広い道に面している。その広い道を右折して進むと、付近は寺町らしく、右手にも左手にも寺の屋根が見える。右の舗道脇には2mほどの観音立像が祀られている。「千手院」と彫られた3mくらいの平たい自然石が門前にある寺のものである。ただし、道脇の観音像は、千手観音ではない。 千手院を過ぎると五差路に出る。やや右に折れる一番広い道を行く。「うぐいす通り」という看板が街路灯に取り付けられている。商店街というほどではないとしても、正午近いというのにシャッターが降りた建物が目につく。 うぐいす通りは、まっすぐに言問通りにぶつかる。その正面のビルに「北の家族」という居酒屋(たぶん)の大きな看板が4階ほどの高さに掲げられている。「北」というのは、食べ物がおいしいといわれている北海道をイメージさせる惹句だろう。もちろん、東北だけで暮らしてきた私には、北海道の食べ物はほとんど馴染みのものばかりで、とくに惹かれることはないのだが。 なにか変わったものを食べたい、というのなら、これは東京に限る。私には何でもあるように見える。仙台では考えられないような変な店も、店として成立しているように見える。1千万を超える人口のもつ凄みであろう。 言問通りを、文字どおり「言問橋」方向に左折し、「根岸1丁目」交差点に出る。 この交差点で、進行方向左側の舗道から右側へ、対角方向へ交差点を渡る。この舗道沿いに有名な「入谷鬼子母神」があるはずである。 鬼子母神の手前、やや古びた3階建ての長い建物があって、どう見ても学校の造りだと思うのだが、地図にはなにも記されていない。少し手前に細い道があったので、戻って入って見た。「坂本小学校」という門柱があって、かつての小学校が廃校になり、今は他の用途に供されているということらしい。 |
草履はき登校をした戦艦のごとく創ある坂本小に 旧坂本小学校の隣が眞源寺である。一画に本堂とほぼ同じ大きさの、鬼子母神を祀るお堂がある。私の知る限りでは、仏教で〈母性〉を表象する神仏は鬼子母神だけではあるまいか。神道の神のことはわからない。キリスト教、とりわけカソリックの圧倒的な「聖母」信仰と比べると、少しさびしい気がする(比べる必要も、理由もないと言えば、もちろんそうなのだが)。 |
うなぎは好物の一つである。好物ではあるが、たまにしか食べない。甘いタレに手こずるのだ。それでいて、やはり無性に食べたくなるときがある。今日がそのとき、ということにした。
食事を終え、その「味の江戸っ子」の店のご主人、奥さんと仙台の食べ物の話をしながら、勘定を済ませ、店を出た。こうした店で、店の人と世間話をするなどということは滅多にない。初めての人とは、気後れがしてあまり話ができない質なのだが、話しかけられればもちろん普通に話せる。こちらから話しかけることが、なかなか難しいのである。
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鰻屋さんを出て、言問通りを東に進むと昭和通りと出会う「入谷」交差点である。「入谷鬼子母神」ではあるが、その住所は下谷1丁目という地番であった。その境界がどこか定かではないが、根岸、下谷と来て、入谷に入ったわけである。 入谷交差点を渡った向こう側、昭和通りの右側の舗道を北に上る。でも、昭和通りのような大きな道は、その距離感において散歩向きではない、ということですぐに狭い道に左折する(Photo O)。台東入谷郵便局のある道だ。小さな会社や事務所が集まっているような道だが、道路脇にびっしりと鉢植えが並べられている建物もある。 ほどなく道は商店街の道に交差する。「入谷1丁目交差点」である。角の八百屋さんの前を右折して、この「入谷金美館通り」を歩くことにする(Photo P)。八百屋、本屋、魚屋、衣料店と続き、道向かいには、「油そば」看板の食堂、お総菜屋さん、中華料理店、お米屋さんが並ぶ正統、本格的な商店街である。
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商店がなくなってくると、大正小学校が現れる。間もなく「入谷2丁目交差点」で、ここを左折して北上する。目指すのは千足稲荷神社である。 昭和通りに斜めに交差する地点までまっすぐ北上して、右折して神社に向かう。 |
先ごろ、樋口一葉ゆかりの地の本郷菊坂あたりを歩いたとき、文学者は作品だけが問題で、「ゆかりの地めぐり」には興味がない、と嘯いてはみたものの、帰宅してから昔読んだ一葉の本を探してみたのである。ところがこれがまったく見つからないのだ。少し意地になって、一番早い方法で、と数分で入手できる電子書籍版で読み直したのである。「たけくらべ」を読んでしまえば、
ということであり、この付近を歩こうと決めたとき、ごく自然に、千足稲荷神社と鷲神社をコースに含めようと思ったのである。 「たけくらべ」で名が知られているので、つい大きな神社だろうと想像してしまうが、千足稲荷神社は、思ったより小規模な神社である。その土地の人たちが祀り、だからこそ「たけくらべ」の子供たちも含めた「大音寺前」の住民たちにとって、「千足神社のまつり」は暮らしと切り離せないかけがえのない祭であったのだろう。大規模な神社は、春日大社や明治神宮に見るまでもなく、たいてい時代時代の政治権力が関与することで成り立っていて、小さな地域共同体の祭とは無縁である。もっとも、現代の祭はイベント化してしまって、共同体幻想の表象の意味を失っているのではあるが。 千足神社の前を東に進み、国際通りを越える。一つめの信号を右折し、鷲神社へ向けて南下する。商店街というほどのことはないが、静かで、それぞれの家がそれぞれの生活感を表明しているような、歩いていて気分の良い道である。 |
普通の民家があり、その隣は何かの店だったり、小さな会社の事務所風だったり、平屋からせいぜい3階建てくらいの建物が並ぶ道をひたすら直進する。地図によれば、ちょっと左に寄り道すると「区立一葉記念館」というのがあるらしいのだが、散歩が勉強臭くなるのがいやで、やはり寄ってみたりはしないのである。小さい頃から自発的に勉強はそれなりにしたつもりだが、「お勉強」はいまでも嫌いなのである。 |
鷲神社の大鳥居の前には「浅草酉乃市御本社」と「鷲神社」の大きな扁額(と呼んでよいのだろうか、看板というのも変だし)を掲げた屋根付きの門がある。その導入部に比べると、鷲神社もまたこぢんまりとした神社である。 「酉の市」の大賑わいは、テレビで何度も見ているが、この境内とテレビの中のあの賑わいがうまく結びつかない。「この年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わいすさまじく、ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢いとては、天柱くだけ地維かくるかと思わるる笑い声のどよめき」 [11] の酉の市と、部屋に伏せっている美登里とが「たけくらべ」のクライマックスを構成する。
じつは、前田愛のすぐれた文芸評論に刺激されたこともまた、一葉の読み返しをしようと思った理由の一つになっていたのである。
この街の「夏のゆふぐれ」も眺めてみたいなどと考えながら、少し進むと、。「千束三丁目」交差点という五差路に出る。 五差路をまっすぐに進むと、道は国際通りにぶつかるが、そこも五差路で、「千束五差路」と名付けられた交差点である。 |
どうして今日のコースには五差路が多かったのだろう。自然の地形なりに道を造ったら五差路になってしまった、という確率は低いだろう。むしろ、独立に発生した集落が独自の座標系で道を造り、集落同士が拡大して境界を接するようになったとき、互いの座標系は直交しないために三差路や五差路ができた、と考えるのが東京のような都会では自然であろう。 あるいは、自然に発生した道路網に、時代の権力が異なった座標系の道路網を重ねたためとも考えられる。政変時や、大震災、太平洋戦争後の復興時など、あるいは都市計画道路建設などによってである。 東京の五差路の空間分布とその成立状況をを調べると、東京の社会学的、歴史的考察にそれなりの風合いを持ち込めるのではないだろうか、などとやくたいもない妄想をしながら、「千束五差路」から国際通りを南に下がり、言問通りを左折して、浅草に向かったのである。
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