ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <街 8>


街歩き・東京 5 上野-入谷-浅草(1) 2010年1月19日
 

「……旦那さま、わっしは帰るところのねえ人間で……、だからなあ、行くところしかねえ人間ですだ。」    
                「でんぼう爺い」の台詞 (金石範「火山島」) [1]

 

  日帰りで、仙台から出てきて、東京の街をぶらぶらしている私には、〈帰るところ〉しかないのである。職をもっていた頃、私には〈行くところ〉がまだあるような気がしていた。幻想には違いないが、必須の幻想であったのだ、と思う。「〈行くところ〉がある」と信ずることは、職業人としての根拠でもあった。
   しかし、定年を過ぎてしまうと、その幻想ははっきりと消えてしまい、せめて〈帰るところ〉があると思えるだけでも良しとする、いや、「〈帰るところ〉がある」という新しい幻想、根拠を必要としている、ということらしい。

   今日は、東京都美術館で「ボルゲーゼ美術館展」を観てからの散歩である。とくに何かを観たかったというわけではない。ローマに行ったとき、計画に入れていたボルゲーゼ美術館に行きそびれてしまった、というだけの理由である。
   スペイン広場を通り抜け、ポポロ広場まで行って、「さぁ、この坂を登ってボルゲーゼ公園だ」というところで雨に降られた。ポポロ広場近くのカフェでビールを飲み、地下鉄でホテルに帰って来てしまった。
   その何年来からのローマの続きを、東京の上野で擬似的に行った、ということである。
  ダ・ヴィンチの模写やラファエロもあったが、カラヴァジョの「洗礼者ヨハネ」を観ることができた。少年ヨハネの裸像である。判官贔屓というか、ヨハネ贔屓の私には何よりであった。聖母子と一緒に描かれることの多いヨハネに、聖母子にもまして、いつも心惹かれるのである。


Photo A 上野公園。都美術館を出て東京芸大へ向かう道。

  都美術館を始点とする街歩きは、計画通りではあるものの、ささやかな反省から始まった。初めてのJR鶯谷駅に降りて、駅南口から忍ヶ丘中学校脇の坂道を上り、林光院などの寺群と国立博物館の庭園のあいだを通る道は、短いけれども、良い散歩道であった。しかし、計画は都美術館から、と決めていたので、一枚の写真も撮らず、やり過ごしてしまったのである。
  決めたことに縛られてしまう、じつにつまらない「教条主義」的性格ではある。その場その場の楽しみを楽しむ、そんなふうに日和見の技を磨くことが、遊びの極意だと、何時もわが身に言い聞かせているのだが、こんなことにも才能がないのである。


Photo B 東京芸大と国立博物館の間の道。北を見る。

   上野からJR寛永寺陸橋を越え、入谷から浅草へ向かう、というのが今日の計画である。谷中霊園までは、幾度か歩いた道である
[2]、というより、上野周辺は私でも何度も来ている。若いときは、東北本線の列車の待ち時間に、年経てからは博物館、美術館に来たついでに、周辺を歩いているのである。

  芸大と博物館のあいだの道(Photo B)を、上野中学校の手前で左折すると、中学校に隣接する建物(Photo C 右手に見える)の玄関に「上野駅周辺滞留者対策訓練 仮宿泊所」という看板が立てられていた。
  むずかしい看板である。「上野駅周辺滞留者」というのは、上野駅近辺にいるホームレスの人たちを指すのだろうとは、推定できる。続く「対策」も、その内容はともあれ、想定は出来る。行政として何らかの対策は必要だろう。その後の「訓練」が分からない。「訓練対策」なら、ホームレスの人たちが訓練される主体で、訓練によって就労し、定住拠点を獲得する、その訓練期間の一次的な宿泊施設という意味に素直に理解できる。
  「対策訓練」ということは、ホームレス対策に従事する人たちを訓練し、その期間の宿泊施設という意味にしか理解できない。都なり区なり、担当の行政機関には、ホームレス対策に従事する人員が少なくて(まさかとは思うが)、新たな人員に福祉行政の訓練を要しているということなのか、まったく新しいホームレス対策をするために新規の訓練が必要ということなのか。
  新たな訓練を受けた何某かの集団が、一斉にホームレスの人たちに向かっていく、などということを考える私は、想像力において偏頗なのだろうか。


Photo C Photo B の道を左折、上野中学校前の道。

街歩きMAP

青線は歩いたコース。A〜ZCの赤矢印は、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4」である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。


   寛永寺を過ぎると、1本の柳が店先に植えられている茶道具屋さんの前である [2]。私のお気に入りの柳 [2] の冬姿は、長い年月、繰り返し選定を受け続けた骨格を露わにしていて、面白いことは面白いのだが、やはり少しさびしい。

   言問通り(都道319号線)に出ると、たくさんの実を付けた夏みかんの木が塀越しに見えてきて、東北人の私には、やはり異地だと知れる。谷中霊園入口を過ぎて、言問通り(都道319号線)を北上する(正しくは北東へ、Photo D)。
  このような街並みでは、どうしても古い木造の家が目につく。古い民家と大きな庭木がセットに現れると、無機的な時間と有機的な時間が一体化しているのは、もしかして珍しいことではないのか、と考えてしまう。「おっ、またあった」と思ったら、養寿院という天台宗の寺であった。


Photo D 谷中霊園入り口を過ぎた付近の言問通り、JR寛永寺陸橋方向を見る。


Photo E

JR寛永寺陸橋手前のお地蔵さん。

   JR陸橋の手前に「寛永寺坂」という看板があり、その道脇に石仏があった。台座は真新しい御影石(たぶん)だが、石仏は古い浮き彫りの像であった。1体は地蔵尊だが、もう1体は観音像である。でも、地蔵像が観音像より大きいということを少し変に感じるのはなぜだろう。

   陸橋から見ると、線路沿いに広がる寛永寺の墓地の広さに驚く。地図で確認すると、朝に降り立った鶯谷駅南口からこの陸橋のあいだの線路沿いの土地はすべて墓地なのだった。大きな都市では、いまや寺と墓地は分離されつつあるのではないかと感じていて、ここまで広いと独立した霊園ではないかと思ったが、すべて「寛永寺第一霊園」ということである。

          貨車過ぐと冬日墓群叫喚す    石田波郷 [3]
           貨車寒し百千の墓うちふるひ    石田波郷 [4]


Photo F JR鶯谷駅前の通り。

  陸橋を越えると。道はそのまま高架道となって東進している。橋を渡り終えたところに、高架道路から鶯谷駅に向かう線路沿いの道に下りる階段があって、そこを下る。
   鶯谷駅に近づくと、低い家並の商店の屋根の上に「元三島神社」の屋根が見えるものの、こちら側には入口がない。そちらには進まず、駅前通りの小さな商店街を抜け、言問通りに戻る(Photo F)。商店街には、銀行も、本屋も、交番もあって、狭いながらも完結しているおもむきがある。
  言問通り(都道319号線)は、このあたりでもまだ高架道路である。高架の下をくぐり、言問通りに沿って左の歩道を歩く。MAPには道の右側を歩いたように記されているが、これは高架のためにGPS信号が不足して誤差が大きくなったためだろう。このGPSナビゲーションは、山歩きではじつに良い精度で有用なのだが、高いビル群の乱立する都会では信号を捕捉できる人工衛星の数が激減して、正確さは期待できない、ということを東京の街歩きをするようになって認識することになった。

   100mほど言問通りに沿って歩くと、左手に小さな道があり、そこに入ることにする(Photo G)。路地の家々の前には、冬なのに鉢植えに花が咲いている。この季節の仙台でも珍しくないパンジーやビオラ、葉ボタンに混じって、ストックが満開の鉢もある。
  我が家では室内で冬越しをするシェフレラ(ヤドリフカノキ)が軒下で2mほどの高さに繁茂し、しかも赤い実が鈴なりになっている。我が家では、室内用のため、陽にも当たらず、高さ制限があって選定をするためか、花すら咲いたことがない。
  育て方を考え直しながら眺めていて、ふとふり返ると「のだや」という鰻屋さんの暖簾がある。今日はうなぎを食べてみたいと思ったが、まだ11時半、諦めて素通りする。


Photo G 言問通りを「鶯谷駅前」交差点から東進し、100mほど歩いて左折した道。

Photo H 西蔵院と「防災広場根岸の里」の間の道。

   道なりに進むと小さな四つ辻に出る。そこを東に直進する道がPhoto Hである。Photo F の駅前商店街からここまでたった7分である。
 

 

光と影が織りなす狂騒の町にも
われわれのたえて覗いたこともない
ひっそりと忘れられた一隅があるのであろう
これらの秋の日に悲しむ者はどこへゆくか
おまえを引き止める者の手がどんなに白くても
窓を離れてなおおまえはどこかへゆこうと望む
  ……(中略) ……
ここを曲がればあの塀が見え
あそこを抜ければその街に出ると
知っているのはなんのためか
犬の従順さに馴れたおまえの嗅覚
頭をたれて夕暮の敷居をまたぎ
笑いながら 身についたさびしさを小旗のように振る者よ
          渋沢孝輔「夜の樹間 間奏曲」部分 [5]

 


   右手のフェンスの中は空地で、そのむこうに永稱寺の本堂と不揃いの墓石のてっぺんが三々五々コンクリート塀越しに眺められる。左の垣根越しに見える瓦屋根は、西蔵院という寺らしい。この細路の終わりに「防災広場 根岸の里」と名付けられた広場がある。
  火災や地震の時の避難のためだろうが、避難先としてつくられた公園様の広場が街中にあるのは珍しいのではないか。大概は、小学校や中学校、高校のグランド、既設の公園を避難先に指定して行政の仕事は終わりというが普通だろう(少なくとも仙台ではそのようだ)。

  「防災広場 根岸の里」のおかげで、このあたりが根岸であることに気づいた。

     月の根岸闇の谷中や別れ道    正岡子規 [6]
     板塀や梅の根岸の幾曲り      正岡子規 [7]

  「月の根岸」、「梅の根岸」に、冬日の真昼の根岸で、私は困惑するばかりである。時代小説の背景に描かれる根岸、正岡子規の根岸、林家三平の根岸、私にはどれもこれも現前する景色に手掛かりはないのであった。
  古い地区なので郊外化するはずはないが、しかし、都心化することなく、とくに豊かそうでもないけれど、けっして貧しくはなく、古いとはいいながら観光地でも保存地区でもなく、普通に暮らし継いできたのだろう。私にはどんな小さな異和も生じないような、ここにはそんな馴染みやすさがある。

  「防災広場 根岸の里」は、歩いてきた細路と、それに直角に交差するやや広い道に面している。その広い道を右折して進むと、付近は寺町らしく、右手にも左手にも寺の屋根が見える。右の舗道脇には2mほどの観音立像が祀られている。「千手院」と彫られた3mくらいの平たい自然石が門前にある寺のものである。ただし、道脇の観音像は、千手観音ではない。
   千手院を過ぎると五差路に出る。やや右に折れる一番広い道を行く。「うぐいす通り」という看板が街路灯に取り付けられている。商店街というほどではないとしても、正午近いというのにシャッターが降りた建物が目につく。
 


Photo I Photo H の道を出て、言問通りに向かう道(うぐいす通り)。
 
  うぐいす通りは、まっすぐに言問通りにぶつかる。その正面のビルに「北の家族」という居酒屋(たぶん)の大きな看板が4階ほどの高さに掲げられている。「北」というのは、食べ物がおいしいといわれている北海道をイメージさせる惹句だろう。もちろん、東北だけで暮らしてきた私には、北海道の食べ物はほとんど馴染みのものばかりで、とくに惹かれることはないのだが。
   なにか変わったものを食べたい、というのなら、これは東京に限る。私には何でもあるように見える。仙台では考えられないような変な店も、店として成立しているように見える。1千万を超える人口のもつ凄みであろう。
 


Photo J 言問通り、「根岸1丁目」交差点。この交差点を越えてまっすぐに。

   言問通りを、文字どおり「言問橋」方向に左折し、「根岸1丁目」交差点に出る。 この交差点で、進行方向左側の舗道から右側へ、対角方向へ交差点を渡る。この舗道沿いに有名な「入谷鬼子母神」があるはずである。   
  鬼子母神の手前、やや古びた3階建ての長い建物があって、どう見ても学校の造りだと思うのだが、地図にはなにも記されていない。少し手前に細い道があったので、戻って入って見た。「坂本小学校」という門柱があって、かつての小学校が廃校になり、今は他の用途に供されているということらしい。

Photo K 言問通りを右に入り、旧坂本小学校を見る。

   草履はき登校をした戦艦のごとく創ある坂本小に
                          福島泰樹 [8]

   この旧「坂本小学校」の建物は、なにか懐かしい感じがして、しばらく眺めていた。この懐かしさは何だろう。この建物の古さは、たぶん私の年齢と同じくらいだろう。私の生まれ育った村にはこんな大きな学校はない。それどころか、小学校も中学校も木造の教室で学んだのである。
   これは、それからの経験と積み重ねで、私の幼年期との同時代性の雰囲気として後天的に形成された記憶がもたらす懐かしさなのだろう。そういえば、三浦展氏が書いている。「人は記憶のなかにある街を愛するのであり、記憶が蓄積される街を愛するのだ」
[9]。       
   だとすれば、東京経験のほとんどない私であっても、蓄積された経験や記憶が、同時代性イメージへの抽象化過程を迂回してきて、「いま、ここ」の東京が懐かしく立ち現れるという場面を、もっともっと期待できるのではないかと、と思う。 


Photo L 入谷鬼子母神を祀る眞源時。

  旧坂本小学校の隣が眞源寺である。一画に本堂とほぼ同じ大きさの、鬼子母神を祀るお堂がある。私の知る限りでは、仏教で〈母性〉を表象する神仏は鬼子母神だけではあるまいか。神道の神のことはわからない。キリスト教、とりわけカソリックの圧倒的な「聖母」信仰と比べると、少しさびしい気がする(比べる必要も、理由もないと言えば、もちろんそうなのだが)。 

   お堂の中はよく見えなくて、鬼子母神像を拝見できずに眞源寺を出ると、道路向かいに「うなぎ」の暖簾が見える。鶯谷駅前近くの鰻屋さんを、時間が少し早いという理由だけで諦めていたので、考えることなくここで昼食とする。11時55分、朝早く仙台を発ったので、十分な時である。

  うなぎは好物の一つである。好物ではあるが、たまにしか食べない。甘いタレに手こずるのだ。それでいて、やはり無性に食べたくなるときがある。今日がそのとき、ということにした。
 

Photo M

鬼子母神前のうなぎ屋さん。昼食をとる。

  食事を終え、その「味の江戸っ子」の店のご主人、奥さんと仙台の食べ物の話をしながら、勘定を済ませ、店を出た。こうした店で、店の人と世間話をするなどということは滅多にない。初めての人とは、気後れがしてあまり話ができない質なのだが、話しかけられればもちろん普通に話せる。こちらから話しかけることが、なかなか難しいのである。
 
    店の前、言問通りの舗道にはアオギリ(木肌から判断して、たぶん)の並木が植えられており、その根本には鮮やかな黄色のオキザリスが咲いている。こうやって見ると、オキザリスはよい花である。
   家の庭にもピンクの小輪花のオキザリスが庭や鉢植えの雑草として至るところに生えている。植えた記憶はないのだが、小さな球根が古い園芸用土に混入して繁殖したのである。
  職を持っていた頃でも、朝晩の水やりなどの花木に世話は私の仕事だったけれども、オキザリスは陽が高くなってから花を開き、夕方は早々に花を閉じてしまうので、私にとってはずっと葉だけの雑草だったのである。繁殖力の旺盛さ、その図々しさも持て余すのである。
   そのうえ、球根を丁寧に掘りあげ、きちんと鉢に植えて一人前の鉢植えの花として扱おうとするとうまく育たなかったりする。雑草然として生きたいらしいのである。
   写真(Photo N)の立派なオキザリスも、位置取りというか場所の占有の仕方は、雑草のそれに見えなくもない。
  

Photo N

うなぎ屋さんの通り(言問通り)の舗道に咲いていたオキザリス(西洋カタバミ)。

  鰻屋さんを出て、言問通りを東に進むと昭和通りと出会う「入谷」交差点である。「入谷鬼子母神」ではあるが、その住所は下谷1丁目という地番であった。その境界がどこか定かではないが、根岸、下谷と来て、入谷に入ったわけである。


Photo O 言問通りから昭和通りを1ブロック北上、右折した道。

  入谷交差点を渡った向こう側、昭和通りの右側の舗道を北に上る。でも、昭和通りのような大きな道は、その距離感において散歩向きではない、ということですぐに狭い道に左折する(Photo O)。台東入谷郵便局のある道だ。小さな会社や事務所が集まっているような道だが、道路脇にびっしりと鉢植えが並べられている建物もある。
   三ブロックを歩いて左折、北上する。マンションなどがいくつか見えるが、似たような道である。人通りもそんなに多くない。

   ほどなく道は商店街の道に交差する。「入谷1丁目交差点」である。角の八百屋さんの前を右折して、この「入谷金美館通り」を歩くことにする(Photo P)。八百屋、本屋、魚屋、衣料店と続き、道向かいには、「油そば」看板の食堂、お総菜屋さん、中華料理店、お米屋さんが並ぶ正統、本格的な商店街である。 


Photo P 「入谷1丁目」交差点から東進する道(入谷金美館通り)。

Photo Q 入谷金美館通り、大正小学校前。
 
  商店がなくなってくると、大正小学校が現れる。間もなく「入谷2丁目交差点」で、ここを左折して北上する。目指すのは千足稲荷神社である。
  昭和通りに斜めに交差する地点までまっすぐ北上して、右折して神社に向かう。
 


Photo R 入谷金美館通りを「入谷2丁目」交差点で左折、北進する道。


Photo S Photo R の道が昭和通りに交差する地点。ここを右折。
   先ごろ、樋口一葉ゆかりの地の本郷菊坂あたりを歩いたとき、文学者は作品だけが問題で、「ゆかりの地めぐり」には興味がない、と嘯いてはみたものの、帰宅してから昔読んだ一葉の本を探してみたのである。ところがこれがまったく見つからないのだ。少し意地になって、一番早い方法で、と数分で入手できる電子書籍版で読み直したのである。「たけくらべ」を読んでしまえば、

 

千束神社の夏祭にはじまった『たけくらべ』の物語は、酉の市の賑いを背景にもうひとつのクライマックスを迎える。
                        
前田愛「子どもたちの時間」 [10]

 


ということであり、この付近を歩こうと決めたとき、ごく自然に、千足稲荷神社と鷲神社をコースに含めようと思ったのである。
 

Photo T 千束稲荷神社の南西角。

    「たけくらべ」で名が知られているので、つい大きな神社だろうと想像してしまうが、千足稲荷神社は、思ったより小規模な神社である。その土地の人たちが祀り、だからこそ「たけくらべ」の子供たちも含めた「大音寺前」の住民たちにとって、「千足神社のまつり」は暮らしと切り離せないかけがえのない祭であったのだろう。大規模な神社は、春日大社や明治神宮に見るまでもなく、たいてい時代時代の政治権力が関与することで成り立っていて、小さな地域共同体の祭とは無縁である。もっとも、現代の祭はイベント化してしまって、共同体幻想の表象の意味を失っているのではあるが。
     
   千足神社の前を東に進み、国際通りを越える。一つめの信号を右折し、鷲神社へ向けて南下する。商店街というほどのことはないが、静かで、それぞれの家がそれぞれの生活感を表明しているような、歩いていて気分の良い道である。 
 

Photo U 千束稲荷神社から国際通りを横切って入った道。
 

Photo V Photo U の道を右折し、飛不動尊へ向かう道。

Photo W

正宝院(飛不動尊)入口。


Photo X

正宝院内の六地蔵。

  普通の民家があり、その隣は何かの店だったり、小さな会社の事務所風だったり、平屋からせいぜい3階建てくらいの建物が並ぶ道をひたすら直進する。地図によれば、ちょっと左に寄り道すると「区立一葉記念館」というのがあるらしいのだが、散歩が勉強臭くなるのがいやで、やはり寄ってみたりはしないのである。小さい頃から自発的に勉強はそれなりにしたつもりだが、「お勉強」はいまでも嫌いなのである。

   「飛不動前」交差点の向こうに飛不動尊を示す赤い旗が見える。正宝院(飛不動尊)は小さいけれど賑やかな寺である。信仰の厚い土地の人たちの熱意のようなものが見える気がする。
   寺内の片隅には「六地蔵」が祀られている。最近良く見かけるようになった、じつに端整な顔立ちの地蔵尊である。端正すぎるような気もする。
  もちろん、古仏もまた端正で気品に満ちたお顔のものが多いけれども、しかし、どこかに破調があって、それが普通の人間の顔に通底するような機制を感じさせ、救うべき衆生に近づいてくるような思いがするのだが。

  飛不動を過ぎると、道は五差路(5叉路)に出る。飛不動からの道に斜めに交差するやや広い道を右にとり、鳳神社が面している国際通りに向かう。

  国際通りに出ると、わたしと同年配の大きなグループと出会った。都内の史跡のようなものを訪ね歩く団体という雰囲気である。リーダーか指導者らしき人が先頭を元気よく歩いている。もしかしたら、鷲神社、飛不動、千足神社と、私とは逆方向に訪ね歩いているのかもしれない。  


Photo Y 飛地蔵から出た地点の国際通り。南方向を見る。

Photo Z

鳳神社の石碑群。


  鷲神社の大鳥居の前には「浅草酉乃市御本社」と「鷲神社」の大きな扁額(と呼んでよいのだろうか、看板というのも変だし)を掲げた屋根付きの門がある。その導入部に比べると、鷲神社もまたこぢんまりとした神社である。
   「酉の市」の大賑わいは、テレビで何度も見ているが、この境内とテレビの中のあの賑わいがうまく結びつかない。「この年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わいすさまじく、ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢いとては、天柱くだけ地維かくるかと思わるる笑い声のどよめき」
[11] の酉の市と、部屋に伏せっている美登里とが「たけくらべ」のクライマックスを構成する。

 

酉の市の賑いをよそに、「薄暗き部屋」に伏せている美登里は、かつて自分の体内に生きていたひとりの少女が確実に死んだことを自覚する。遊び女(め)に再生するためには、遊ぶ子どもはいったんは死ななければならないのだ。
 美登里にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終わりを告げる。
                              
前田愛「子どもたちの時間」 [12]

 

  じつは、前田愛のすぐれた文芸評論に刺激されたこともまた、一葉の読み返しをしようと思った理由の一つになっていたのである。
 
  街のぶらぶら歩きにちょっとした気分の盛り上がりを作ってしまった。そんな後は気分が下がってしまうので、あまりよいことではない。できれば、平静に、平板に、均等に、街並みを見て歩いたほうがよいのではないか、と思う。
   案の定、鷲神社の後の街並みの印象は少しだけ薄いのである。国際通りを南に下り、「千束一丁目」交差点を左折して「せんわ通り」という道に入る。東進し、最初の信号を右折して南に進むが、その道も「せんわ通り」というらしい。「通り」というのは直線部を指す、というのは私の思い込みらしい。

  商店、民家、ときどきマンション(アパート)、という自然な構成の街並みで、落ち着いた気分で歩くことができる。

 

担架にて、
病人のゆく浅草の、千束町の、
  夏のゆふぐれ。

                         西村陽吉 [13]

 

  この街の「夏のゆふぐれ」も眺めてみたいなどと考えながら、少し進むと、。「千束三丁目」交差点という五差路に出る。 五差路をまっすぐに進むと、道は国際通りにぶつかるが、そこも五差路で、「千束五差路」と名付けられた交差点である。


Photo ZA 国際通りから「千束1丁目」交差点を東に入る道(せんわ通り)。

Photo ZB Photo ZA の道を左折して「千束3丁目」交差点から進行方向を見る。
この道も「せんわ通り」らしい。

 
   どうして今日のコースには五差路が多かったのだろう。自然の地形なりに道を造ったら五差路になってしまった、という確率は低いだろう。むしろ、独立に発生した集落が独自の座標系で道を造り、集落同士が拡大して境界を接するようになったとき、互いの座標系は直交しないために三差路や五差路ができた、と考えるのが東京のような都会では自然であろう。
  あるいは、自然に発生した道路網に、時代の権力が異なった座標系の道路網を重ねたためとも考えられる。政変時や、大震災、太平洋戦争後の復興時など、あるいは都市計画道路建設などによってである。
   東京の五差路の空間分布とその成立状況をを調べると、東京の社会学的、歴史的考察にそれなりの風合いを持ち込めるのではないだろうか、などとやくたいもない妄想をしながら、「千束五差路」から国際通りを南に下がり、言問通りを左折して、浅草に向かったのである。    
 


Photo ZC 国際通りから言問通り東方向に左折する。浅草へ。



(2012/1/16)
  1. 金石範「火山島 I」(文藝春秋 昭和58年) p. 152。
  2. 「街歩き・東京3 上野-本郷-お茶の水(1)」
  3. 「石田波郷読本(『俳句』別冊)」(角川学芸出版 平成16年) p. 111。
  4. 「石田波郷読本(『俳句』別冊)」(角川学芸出版 平成16年) p. 62。
  5. 「子規句集」高浜虚子編(岩波文庫 2001年、ebookjapan電子書籍版) p. 102。
  6. 「子規句集」高浜虚子編(岩波文庫 2001年、ebookjapan電子書籍版) p. 93。
  7. 「現代詩文庫42 渋沢孝輔詩集」(思潮社 1971年) p. 33。
  8. 福島泰樹「妖精伝」『福島泰樹全歌集 第2巻』(河出書房新社 1999年) p. 189。
  9. 三浦展「ファスト風土化する日本」(洋泉社 2004年) p. 207。
  10. 前田愛「都市空間のなかの文学」(筑摩書房、1982年) p. 305。
  11. 「ちくま日本文学全集 樋口一葉」(筑摩書房 2005年、筑摩eブックス電子書籍版)。
  12. 前田愛「都市空間のなかの文学」(筑摩書房、1982年) p. 308。
  13. 西村陽吉「現代日本文學大系95 現代歌集」(筑摩書房 昭和48年) p. 45。