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〔街歩き・東京 3〕 上野-本郷-お茶の水(1) 2009年11月12日 |
この東京の街歩きを旅だとは思ったことはない。地名だけを知る場所が東京にたくさんあって、もちろん見たことのない土地を歩くのだが、何かしら人生でやり残したこと、寄りそびれてしまった場所(のようなもの)を直に手触りで探る作業のような感じなのである。そして、作業としての歩行がもたらすもの、その先、というものを何も考えていない。確認だけのような行いなのである。 |
犬を眺めていた目を上げると、東京芸大は木立に囲まれていて、道際の古木にはびっしりと苔が生えているのであった。中には鉄製フェンスを呑み込みつつ、瘤を形成している木もある。 歳月の獄忘れめや冬木の瘤 秋本不死男 [2] |
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寛永寺から言問通りに出る途中、茶道具の店があって、しだれ柳の木が一本植えられている。少しの間、見とれてしまった。これ以上大きくても小さくてもいけない、これ以上広がっても細くてもいけない。絶妙のバランスなのだ。 私は仙台・広瀬川の堤防沿いに住まいし、川岸に生える大きな柳の木々を見ながら暮らしている。しだれ柳ではないが、春の萌は美しい。啄木が「やはらかに柳あをめる/ 北上の岸辺目に見ゆ/ 泣けとごとくに」 [3] と詠った柳である。ただ、この柳の霞むような薄緑の萌えの時期は短い。しかし、Photo E の柳なら、落葉したときでさえ枝振りを楽しめるのではないか。この柳には、次の歌が似合わしい。 みずからの幹をめぐりて枝あそぶ柳一木はふく風のなか 墓所というのは微妙なところである。私にとっては静かで好もしい場所の一つであるが、それでいながら近寄ることが憚られる感じのする場所でもある。たとえば、墓碑銘をしげしげと眺めてよいのか、と思うことがある。ここは死者たちのプライベートな場所だ、見も知らぬ私が近づく距離は自ずと制限される場所だ、と思ってしまうのである。 谷中路の森の下闇わが行けば花うづたかきうま人の墓 正岡子規 [5] 戰死者ばかり革命の死者一人も無し、七月、艾色(もぐさいろ)の墓群 なるべく墓碑銘を読み込まないように、墓地のなかを歩く。目を上げて歩いていると、ナツミカンの大木が見える。ナツミカンの木を生まれて初めて見たのは、12,3才の頃、静岡県の清水の街であった。次姉の嫁ぎ先を訪ねる母にくっついていったときである。今でもナツミカンの木は珍しく見てしまう。
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ナツミカンから目を下ろすと、黒猫が静かに墓石の脇から出てきて、私のそばを歩いて行く。私を見ないように、私がいないかのようにゆっくりと通り過ぎ る。
墓の間を抜けると、また桜並木の立派な道がある。この道をまっすぐ、谷中霊園を出ることにする。谷中霊園西の道から少し広い通り(都道452号線)にちょっと抜けた小路が Photo Jである。この道の途中に「旧町名由来案内」があって、この辺は谷中茶屋町といったらしい。、江戸時代に感応寺というお寺の財政再建のために作られた町屋で、茶屋で賑わっていたらしい。宗教団体が宗教以外で金儲けをするのは今に始まったことではないのである。 この道の付近で鉢植えのザクロ(石榴)を見かけた。この矮性のザクロは、実をつけると1級の盆栽に見えてしまうという徳がある木で、いつも感心してしまう。鉢を吟味しさえすれば、十分に楽しめるのである。
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都道452号線が西にカーブする付近で右折する。静かな道である。珍しい鼈甲細工の店がある。鼈甲細工は私の暮らしには縁のないものだったが。
左折して細道(Photo L)に入る。持参した地図には、大通り(都道452号)へ戻る道しか記されていないが、突き当たりを右に曲がるいっそう細い道(Photo M)があった。左手は崖である。この道は、高いコンクリート擁壁とアパートに挟まれた坂道に続き、道なりに左に折れると Photo N の住宅地の坂道に出る。
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Photo N を出た道を右に少し行って、岡倉天心記念公園(旧宅跡)の入口は覗いてだけで引き返した。反対の左方向に進むと、谷中コミュニティセンター隣の「初音の森」という広場の前に出る。森は広場の東側の奥にあり、その向こうはさっき歩いてきた Photo M の道である。「初音の森」というのは、さきほどテレビクルーと出会った付近がかつて「谷中初音町」と呼ばれていたことに由来するのだろう。 「初音の森」広場のところで右折して、西に向かう道に入る。道の途中に小さな公園があり、11月だというのに真夏の花、カンナが咲き残っていた。公園には「三四眞(みしま)地蔵尊」が祀られている。「三崎町、初音町四丁目、真島町」 の三町の戦災死者の霊を弔う地蔵尊で、名前は三町から一字ずつ取ったということである。このように落ち着いた静かな住宅地は先の戦争で被災しなかった地域ではないかと思っていたが、認識を新たにした。 その道を西進すると「よみせ通り」商店街に出る。地図によれば、この通りに沿って台東区と文京区の区境が走っている。「よみせ通り」をクランク状に横切ってさらに西進すると不忍通りである。不忍通りもまっすぐに横切って Photo O の道に入る。それは須藤公園の南東の角に出る道であった。
須藤公園はそんなに広くはないが、風情のある日本庭園である。奥が急な斜面になっているので、風景の完成度が高いのである。
下を向いて急な坂を上り終えるころ、地表に散らばった無数のサザンカの花びらが目に入る(Photo R)。民家の塀の中にある大木からの落花であった。 |
須藤公園からの狭い坂道から出た高台の住宅地には「千駄木三丁目7」の表示がある。角を二つほど曲がって南の方に歩くと次第に道は下って、マンションが多くなる。突き当たったT字路は、坂の途中のように見えるが、「団子坂上」交差点である。 団子坂を下る。下りた道は、さきほど須藤公園に向かう途中で横切った不忍通りである。 不忍通りを根津神社まで行くつもりなのだが、大通りを歩くのはあまり楽しくないので横道に入ると、汐見小学校に出る。東側の道を歩いて南へ。ここにもソメイヨシノがあって、日本の義務教育制度は、ソメイヨシノを共生菌のように抱え込んでいるかのようである。 汐見小学校の南端を左折し、細い道を不忍通りに戻る。また南に下り、「千駄木2丁目」交差点を左折して根津神社に向かう。 |
根津神社は、シイの木のたぐいの大きな広葉常緑樹に包まれている。「根津神社」の大きな石塔、立派な鳥居をくぐるが、そこは正面ではないらしい。見通しの悪い道を折れて本殿の側面に出ると、スダジイの大木がある。この木は仙台には生えていない。暖地の広葉常緑樹である。スダジイをスダジイと認識して眺めるのはこれが初めてである。 知らない土地を歩いて、そこが旅先だと実感するような契機は色々だろうが、私の場合は花とか木、植生の場合が多いような気がする。職を得てすぐの頃、学会が開催される横浜国立大学へ向かう途中の坂道で、草むらの中にクサボケの花を見つけたことがある。横浜は仙台よりずっと暖かいのだと思った瞬間で、今でもはっきりと覚えている。
「しどめ」 とはクサボケのことである。クサボケが自生しない仙台にこのような言い伝えはないが、園芸用としては入手できる。小物盆栽の素材として貴重で、ずいぶん前に育てていたが、いつの頃か消えてしまった。
根津神社本殿前には二人の参拝者がいるだけだったが、楼門のある広い境内にはおそらく団体で来たものだろう、年配のグループが三々五々休んでいた(Photo Y)。12時30分を回ったところで、昼食弁当の時間だったのかもしれない。 |
不忍通りに出ると、そこの交差点は「根津神社入口」である。つまり、いま出て来た方が表の参道ということだろう。少なくとも東京都公安委員会は公然とそうだと教えてくれているわけだ(このような道路標識は公安委員会の管轄だったと思う)。 その「根津神社入口」交差点脇に日本そばの店があって、そこで昼食とした。
昼食を終えて、そば屋さんの脇の道を北東に歩くことにする。街灯に「八重垣謝恩会」と「文豪の街」という看板がぶら下がっている根津神社から続く通りである。謝恩会というのはなんだろう。街灯には商店会の看板が普通のように思うが、同じようなものか。根津神社の神恩に感謝している商店会、というのがもっともらし想像だが、確かではない。
「文豪の街」通りを4ブロック(右手の細道で数えて)ほど進み、右折する(Photo ZC)。古い木造建築も見える住宅地のまっすぐな道である。この道を直進して、言問通りに出る。 言問通りを南西に進み、ふたたび不忍通りを横切って、東京大学へ向かう弥生坂を上る。
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弥生坂を上りきるあたり、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑の前を通りすぎ、東大工学部裏の道(Photo ZE)に右折する。 右手の東大構内が工学部から理学部の敷地に代わったころ、道を左折して住宅地の細道を歩く。崖下の住宅の突き当たりなどを曲がっていくと、七倉稲荷神社に出る。 神社から大きなマンションビルの脇を通って不忍通りに出る。目の前は上野動物園である。不忍通りを不忍池まで歩いて、今日の街歩き・東京の前半とする。結局、千駄木からここまでは不忍通りから右に入り、左に入りしたものの、ずっと不忍通りから離れずに来たのである。
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