ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <街 4>


街歩き・東京 4 上野-本郷-お茶の水(2) 2009年11月12日

  不忍通りを南に下ると横山大観記念館があって、ツワブキの咲く落ち着いた庭が見えたが通りすぎてしまった。今になって少し後悔している。
  「不忍池西」交差点を右折すると、旧岩崎邸の裏の坂道に入る。無縁坂という。坂の上にあった無縁寺という寺に由来すると、坂下の看板に説明がある。森鴎外の「雁」の主人公が散歩した道で有名だともあったが、読んだのはずっと昔のことで私には記憶がない。散歩の道に、いくつか良い坂道を持っていることは大事なことだ。

   必ずや心静もる石畳この伸びやかな坂を登れば
                        道浦母都子 [1]


Photo A 旧岩崎邸庭園裏の無縁坂。


Photo B 無縁坂を上り、旧岩崎邸庭園に沿って左折した道。

  無縁坂の道の片側は石垣と塀で、上りきっても塀が続いている(Photo B)。その塀の終わりを左折する。つまり、旧岩崎邸に沿って反時計回りに歩いた。その道には当然のように三菱資料館があって「三菱の歴史がわかります」 と謳ってある。 なんか、きちんと当たり前なのであった。

   文京体育館プールを過ぎてからまた左折すると、道と旧岩崎邸の間に道に沿って公園がある。その公園は、右に折れる道に沿ってずっと続いている(Photo C)。
   この道を出ると春日通りで、切通坂の途中である。


Photo C 旧岩崎邸庭園を反時計回りに歩き、春日通り湯島天神前に出る細道。

Photo D 湯島天神境内、菊花展。


Photo E 湯島天神南の道。「湯島中坂上」交差点付近から湯島天神を見る。

  「湯島天神入口」交差点から湯島天満宮に向かう。境内では菊花の展示会が開催されていて、豪華な菊の花々が目を引く。日本の園芸独特の鑑賞法だと思うが、私が菊に持つイメージとは異なる。

   籬あり菊の凭るゝよすがあり     高浜虚子 [2]

   しら菊の目に立てゝ見る塵もなし   松尾芭蕉 [3]

   去る人と知らず小菊に文を書く    長谷川かな女 [4]

  私が好きなのは、小菊であり、乱菊であり、籬の菊である。琳派の描くような菊なのだ。

   湯島天神の鳥居からまっすぐに伸びる道に出て、湯島小学校のある道へ右折する。小学校以外は、マンションなどの集合住宅と小さなオフィスビルの続く道である。まだ確信はないが、東京ではこのような道が標準的で特徴のない道なのではないかと思える。
  道なりにまっすぐ進み、突き当たりになったので右折し、春日通りに出る。春日通りを西へ、本郷に向かって歩く。


Photo F 湯島小学校北側の道。
 

街歩きMAP

青線は歩いたコース。A〜ZHの赤矢印は、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。



Photo G 春日通り、「本郷3丁目」交差点

  春日通り「本郷3丁目」交差点に出る。この交差点は見覚えがある。東大に出張の時、地下鉄を降りて地上に出て来た場所である。どちらに歩いて行けばよいのか、しばらく周囲を見回していた場所なので、記憶に残ったのだろう。 当然ながら、ここを右折した本郷通りを歩いたはずである。
  本郷通りに入ったが、東大方向は避けて、すぐ左折して菊坂通りに入った。そこには、「文の京 一葉文学のまち」という案内板があって、樋口一葉が記した文章と対応する本郷近辺の地点を示している。読み始めたのだが、文章が多いのですぐに諦めた。相変わらず、私には文学者の足跡とか遺品とかへの関心が薄いのである。

Photo H

菊坂通り、東端から。


   菊坂通りを3分の2ほど進んだ十字路の左手を覗くと、菊坂通りに並行する細道(Photo I)が下っていくのが見えて、そこに入ることにした。本当に狭いが、長い道である。
  道の脇、軒下、塀際にはたくさんの緑が張り付いている。狭い庭に花を植えて四苦八苦している私には、植物の配置、組み合わせなど、見ているだけで楽しい。真似てみたいやり方もいくつかある。

Photo I

菊坂通りに平行に走る細道入口。


Photo J

菊坂通り脇の細道。

  150mくらい進んだころ左手に路地があって、なんとなく見覚えがある気がした。奥に階段があって、民家の2楷がその上にせり出しているのである。そうなのだ、これはテレビでいつか見た樋口一葉が暮らしていた路地なのだ。そうであれば、右手奥に井戸があるはずだが、隠れて見えない。かといって、その路地に入ることはためらわれた。ここには暮らしている人々がいて、その庭前に入り込む感じがして、それは不作法だという思いがするのである。

 

親しい仲にも秘密がある。ひとの秘密には手を触れてはいけないのだ。それが生まれそだったゆきどまりのちいさな路地のおしえてくれた、ひとの暮らしの礼儀だった。
 ……〈中略〉……
どんなちいさな路地にさえ、路地のたたずまいには、どんなひろびろとした表通りにもないような奥行きがある。ひとの暮らしのもつ明るい闇が、そこにある。
             長田弘「路地の奥」部分 [5]

 

  適当な距離を歩いて、左手の高みを並行する菊坂通りに戻った。さて、これからどちらに進むか少し悩んだ。家を出る前、ここから北方向、東大農学部の向こうにかつて本郷肴町と呼ばれた街があることを確認して来たのである。それは私の好きなこの詩のためである。
 

おれが好きだというだけの町で
おれが好きだという数だけ
熱にうるんだ灯がともっても
風に あてどは
もうないのだ
おれが好きだというだけでは
低い家並は道へはせり出さぬ
おれが好きだというだけでは
人の出入りへ木漏れ日も落ちぬ
おれが好きだというだけでは
片側かげりの電車も走れまい
本郷肴町
……(中略) ……
するめのようなこわい掌(て)を振って
陸奥のおとこが立去って行くむこう
本郷肴町に
雪は降っているか
           石原吉郎「本郷肴町」部分 [6]

 

  本郷肴町を探すことはあきらめた。文学者の足跡を訪ねてもこの私には何も起きないことを知っているからこそ関心を失っていたはずで、今日に限って何かあるとは考えられないのだ、と思いなしたのである。それに、仙台からの日帰りでの街歩きの私には、時間の制限も避けられないのである。


Photo K 菊坂通りに戻り、東方向を見る。


Photo L 菊坂通りから左折して北上する道。

   菊坂通りを少しだけ戻って、左の細い坂道を上ることにする。散歩に欠かせないのは坂道と曲り角である。

   秋の街曲り角多し曲りゆく     三橋鷹女 [7]

  坂道を上り、和風旅館前を過ぎると、さっそく曲り角である。道なりに曲がって、同じように細い道を進む。道の向こうは広い通りらしく、その道の向こうは緑の森のようだ。この道から出る広い通りが本郷通りで、道向かいが東大であることを知るのは、通りに出てしばらくしてからである。地図を見ても、意外と文字を読んでいないということらしい(要するに、注意力散漫ということなのだ、私という人間は)。


Photo M 道は和風旅館の前を通り右折する。


Photo N 本郷通りに出る道。正面突き当たりは東大。
  本郷通りを南方向、春日通りから入った方向に戻り、東大赤門を過ぎてすぐ右折して横道(Phoyo O)に入る。静かな住宅地である。


Photo O 本郷通り東大赤門前を過ぎて、西方向に右折した道。

  写真には、植木の世話をする婦人と散歩をするお年寄りが写っているが、左へ曲がりながらも道なりに菊坂通りへ出るまでの間、それ以外の人には会わなかった本当に静かな住宅であった。
   Photo O にも小さく写っているが、白い塀の上にナツミカンがのぞいていた(Photo P)。季節が早くてまだ実が青いのが惜しまれる。正月ころには黄色が冴えるようになるのだろうか。
   菊坂通りが見え始める下り坂の途中で、珍しい花を見た(Photo Q)。初見である。もちろん名前も知らなかったのであるが、後日調べたら「コエビソウ」という名であった。花が海老に似ていることによるらしい。中央アメリカ原産で、常緑の花木である。南関東では落葉するものの軒下で越冬するらしい。仙台での戸外栽培は無理で、室内の冬越しなら可能というわけで、私には手を出しにくい。
家は狭く、無加温の温室もすでに満杯なのである。


Photo P 白塀越しのナツミカン。


Photo Q 初めて見るコエビソウ。

  ふたたび菊坂通りに出たところは、先ほど入った尾崎一葉の住居跡に行く細道が分岐する十字路である。そのまま、菊坂通りを横切り、その細道を横目に見て坂道(Photo R)を上がる。本郷小学校へ行く道である。
  本郷小学校を過ぎるとすぐ春日通りである。春日通りも突っ切り、まっすぐに歩く。アパート、マンションの並ぶ道である。左手に本郷台中学校がある。そこから2ブロックほど歩くと、比較的広い道と交差したので、そこを左折する(Photo S)。商店街のようであるが、通りの名は分からない。これぐらいの規模の通りには良く街灯などに表記されていることが多いのだが。

Photo R

菊坂通りから本郷小学校へ行く坂道。



Photo S 本郷台中学校を過ぎ、左折し、本郷通りへ向かう道。

Photo T 本郷通りを横切って進む道。

   その道は、200mほどで本郷通りに出る。ここでも大通りはパスすることにして、交差点を横断する。Photo T がそうして入った道である。この道は次第に右へカーブするが、道なりに進んで行くことにする。消防署前通りというやや広い道を越え、2ブロックほど先の信号を過ぎると、次第に上り坂になる道が向こうに見えてくる。
  「湯島2丁目」交差点を越えたあたりから坂道が始まる。坂の途中に霊雲寺という寺がある。谷中にはやたらと寺があったが、この付近にはこの寺だけがあるようである。寺町を形成する場合と、そうでない場合の違いはなんだろう。町の成り立ちに関係しているだろうとは思うのだが。


Photo U 「湯島2丁目」交差点過ぎの坂道。


Photo V 霊雲寺西南の交差点付近。

  坂の頂上は、「三組坂上」交差点である。まっすぐに進む道は急な下り坂である。右に曲がる道も下り坂である。左の道は平らで、向こうの突き当たりは緑の森のようだ。地図で確認すると、「三組坂上」交差点で出会った道は、先ほど歩いた湯島天神の鳥居の前からまっすぐに来る道なのであった。


Photo W 「三組坂上」交差点。


Photo X 「三組坂上」交差点を南に右折、清水坂下に向かう。

Photo Y 蔵前橋通りを「清水坂下」交差点で横切り、神田明神へ行く道。

  「三組坂上」交差点から右の坂を下りて、神田明神に向かうことにする。当初は、谷中から歩き出し、JR御茶ノ水駅か飯田橋駅あたりを目標にするという程度のもくろみであったが、実際には、室生犀星が詩に書いた(上野-本郷-お茶の水(1))ように、「坂は谷中より根津に通じ/本郷より神田に及ぶ」のとおりに歩くことになる。

   「三組坂上」交差点から下りると、道は蔵前橋通り「清水坂下」交差点に出る。蔵前橋通りを過ぎると道はふたたび上り始める。左手に神田明神に行く道があるのだが、見落として本郷通り近くまで行って気づき、引き返して、たどり着くことが出来た。
  神田明神は、目にも鮮やかな朱塗りの楼門と本殿を持つ神社である。神社の朱塗りは珍しくはないが、この神社の朱はとくにあでやかな気がする。


Photo Z 神田明神。


Photo ZA 神田明神東の石段道。


Photo ZB 明神下中通り。

  神田明神の楼門前を過ぎ、神社北横に出ると、神田明神下の町に下りる高い石造りの階段道(Photo ZA)がある。神田明神がこの高さにあるのだから、文字どおりの神田明神下である。

  神田明神下といえば野村胡堂の「銭形平次」である。原作は読んだことはないが、大川橋蔵主演のテレビドラマを何回かは見たことがある。「神田明神下」は、語呂がいいというか、リズムがいいというのか、よく分からないが口につきやすく、覚えやすい地名のように思う。

   石段道を下り、少し直進して右に折れると、その道は神田明神下中通りである(Photo ZB)。小さなオフィスビルの多い通りである。この道をまっすぐあるいて、本郷通りに出る。本郷通りは緩やかな坂になっていて、右折して坂を上っていく。
  
  本郷通りの坂を登りきる少し手前を左折し、昌平坂を下る道に入る。昌平坂入口の右手の公衆トイレがあり、そこに立ち寄った。Photo ZC に写っているタクシーは、私と並んで用を足した運転手さんのものである。

   そのタクシーの向こう、右側舗道沿いの塀が尽きるあたりにある緑は、斜面の植生のものである。その緑の中に見慣れない花を見つけた(Photo ZD)。蔓性の木の枝の葉の付け根から一花ずつ咲いている。五弁の紫に白の覆輪を持つ花である。花の直径は2cmほどであろうか。
  木の全体がよく見えなかったのと、 白の覆輪という花に惑わされたが、白覆輪がなければクコ(枸杞)の花にそっくりである。クコも枝の一部を拡大すれば、蔓性草本に見えなくもない。たぶんクコだったろうが、そのときは、しばらくのあいだ、ためつすがめつ眺めていたのである。


Photo ZC 本郷通りから昌平坂を下る。

Photo ZD

昌平坂右側の石垣に咲く(たぶん)クコ(枸杞)の花。



Photo ZE 湯島聖堂のトネリバハゼノキ。


Photo ZF 湯島聖堂の紅葉。

   昌平坂を下り、神田川沿いの外堀通りを右折し、湯島聖堂に立ち寄る。
  湯島聖堂と行っても聖堂そのものには寄らず、庭を通り抜けただけである。ここにも初めての木があった。「トネリバハゼノキ」である(Photo ZE)。中国名を「楷(かい)」というそうである。中国は曲阜にある孔子の墓所に植えられ、現在まで植え継がれている木の種子を持ち帰ったものだそうだ。湯島聖堂ならではの木で、他では見られそうにない。
  孔子像を見て奥に進み、坂と階段を上がり、塀沿いのまっすぐな道を少し歩いてからふり返ると、絶妙な紅葉をする大樹に気がついた(Photo ZE)。上の方はは黄から赤へと移りつつあり、下には、黄に染まり始めた枝があり、それらの色が緑から浮き立っているのである。

      この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉     三橋鷹女 [8]

   東北の山を歩いて、全山紅葉を幾度となく見ているが、そのときもやはり、そのパノラマよりも1本の木の微妙な変化の方に打たれることがある。景色ではなく、一つの生の美しさである。

   さらに大成殿への石段を上り、本郷通りから聖橋へ向かう道に通り抜けた。

   神田川にかかる聖橋に向かって歩き始める。その道には銀杏の並木があるが、こちらはまだまったく色づいていないのであった。
  外堀通りから聖橋にかかるころ、橋向こうのやや高くなったところに、ニコライ堂の屋根が見える。なんの根拠もないが、ニコライ堂のことはずっと知っていたように思えた。その時の地図には記されてはいなかったが、ニコライ堂だという確信にまったく疑念はなかった。 


Photo ZG 聖橋とニコライ堂の遠景。

Photo ZH お茶の水「駅前」交差点。

  聖橋を渡り、「聖橋」交差点を右へ、御茶ノ水駅前に出る。そこはスクランブル交差点で、ほとんどは学生の集団で、一斉に渡るのだ。
   小腹が空いて、そこから少し戻って中華料理店でラーメンを食べ、そこで本を読み、読書用の眼鏡をその店に忘れ、東京駅から引き返すというおまけがあったが、今日の街歩きはここが最後ということにした。
 

群集の中に浴(ゆあ)みするということは、誰にでも出来ることではない。群集を愉しむことは一つの芸術である。ただ選ばれた者のみが、──幼い時に守護の妖精によって、仮装と仮面との趣味を、定住への嫌悪と旅行への情熱を、彼の揺籃(ゆりかご)の中へ吹き込まれた者のみが、人類の犠牲に於て、ひとり恣(ほしいまま)に生活を享受することが出来るのである。
 シャルル・ボードレール(福永武彦訳)「パリの憂愁 12 群集」部分 [9]

 



(2011/2/23)
  1. 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 370。
  2. 現代日本文學大系19「高浜虚子・河東碧梧桐集」(筑摩書房 昭和43年) p. 45。
  3. 「日本の古典 54 芭蕉句集」(小学館 昭和59年) p. 211。
  4. 「わが愛する俳人 第二集」(有斐閣 1978年) p. 83。
  5. 長田弘「詩集 記憶のつくり方」(晶文社 1998年) p. 31。
  6. 「現代詩文庫26 石原吉郎詩集」(思潮社 1969年) p. 80。
  7. 現代日本文學大系95「現代句集」(筑摩書房 昭和48年) p. 215。
  8. 「わが愛する俳人 第一集」(有斐閣 1978年) p. 109
  9. シャルル・ボードレール「ボードレール全集 第1巻」(福永武彦訳)(人文書院 1963年) p. 297。