ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <街 9>


街歩き・東京 6 上野-入谷-浅草(2) 2010年1月19日
 
街歩きMAP 青線は歩いたコース。A〜ZBの赤矢印はは、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。
地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。

 

Photo A

浅草ひさご通り。

  どこから浅草なのだろう、言問通りを歩きながら考える。そういえば、先ほどの鷲神社は「浅草酉乃市御本社」という看板を掲げていた。そこから「千束」という地番を歩いてきた。もうすでに浅草なのか、まだ浅草に着いていないのか、判然としない。
   そんなことをうだうだ考えていたら、派手に黒地に金文字で「浅草ひさご通り」と大きく描いた看板が見えてきた。私の浅草はここから、ということにしてひさご通りというアーケード街に入った。

   そのアーケード街に「江戸伝統下町工芸館」がある。入ってすぐに、鮒釣り用の江戸和竿(竹の継ぎ竿)が展示されていて、非売品ながら7万なにがしかの値札がついていた。つまり、あまり贅沢を言わなければ、伝統的な江戸流の鮒釣りの一式が私にも揃えられそう、ということである。
   4才位から始めた私の鮒釣りは、高校2年の終わりに家を出る直前にクライマックスを迎え、その後1度も鮒釣りをやっていない。もう1度鮒釣りを、しかも、幼い頃、田舎の文房具店で買った安手の竿ではなく、江戸の流儀で釣ってみたいと、ずっと思っていたのである。シモリ浮き(直径五mmほどのごく小さな丸浮きを連ねたもの)が鮒のアタリで、水中で揺らめくのを見たいのである。その望みは、仙台近郊のマブナ釣り場を知らないことと、江戸和竿を置く店が仙台にないこと、などを理由にして実現していないが、なんとなく可能性が出て来た、と思いながら工芸館を出て来た。他にもたくさんの工芸品の展示があったと思うが、釣り竿のことしか記憶にない。

   ひさご通りを抜けると、左手に「花やしき通り」があって、人力車が遠ざかっていく。少し心惹かれたけれど、右手、6区ブロードウェイへ進む。 


Photo B ひさご通り南端から六区ブロードウェイを見る。

  浅草は、演芸、芸能のような遊戯のカテゴリーでは東京の一つの中心である(あった?)ということから言えば、東京で暮らす人、暮らしていた人の心になにがしかの特異な接触点を持っているのだろうと思う。
 
   巻き戻す時計の捩子よ青春よ浅草六区の風となるため
                               福島泰樹 [1]
 
   東京人にとって、浅草は「浅草寺」と「六区」と「花やしき」などがすべてコミで浅草なのだろうか。それとも、それぞれは個々の生き方とか好みとかで、個別的なのだろうか。寺の門前に芝居小屋などがかかり、それが次第に街に発達するというのは良くあるイメージだが、そんなシンプルなことでこんなに大規模になるというのも想像しにくい。これも、過大な人口の持つ〈凄み〉の一つであろう。 

Photo C

「見返り美人」ならぬ振り向いてもくれなかったネコ。六区ブロードウェイの日本料理店前。



Photo D 浅草演芸ホール。

   しかし、当面の私の課題は、人酔いをする前に、この人混みをいかにすり抜けるかということである。とはいっても、東京の街歩きで、この辺をすっぽりとはずすというわけにはいかないだろう、というのは分かってはいる。 

Photo E 伝法院通り、西端から。


Photo F 伝法院通りから浅草寺本堂を見る。


Photo G 仲見世通りから伝法院通り東方向。

  伝法院通りに入って、仲見世通りの方に向かう。じつに雑多な店が並び、私がこれまで見たことも触れたこともないような小間物、雑品が溢れていそうな雰囲気があり、かといって私の残りの人生に何ひとつ役立ちそうにない雰囲気もあって、次第に増えてくる人混みに押されるように、ただ通りすぎるだけである。

  仲見世通りまで来て、浅草寺のほうを望むと、人ばかりである。この道は、かつて1度歩いていたことがある、つまり、今回はパスして何の問題もない、というちゃんとした理由もあるので、まっすぐ、伝法院通りを進む。

  昔、ずっと以前に(つまり、私がまだ若かった頃)、フォークソングか歌謡曲か、その分類は分からないが、「浅草寺」という歌があった。麻里絵という歌手が、女性特有の繊細で透明な感じの声で歌っていた。今でも好きな歌で、ときどき聴いている。
  歌の内容は、夏祭り(五月の三社祭?)の宵に、浴衣を着て、恋人とお神籤を引いたり、夜店で指輪を買ってもらったりしたが、今はひとりで浅草寺に来ている、というごくごく平凡な恋(終わった恋)の歌である。恋はたいてい平凡なものだが、平凡であるがゆえに普遍的に美しいということもあるのだ。
  ただ、人酔いの恐怖に脅える私の中では、その平凡な恋とこの眼前の人混みがうまくリンクしないのである。そうはいうものの、平凡な恋であろうとも、当人たちにすれば、その恋は固有で特別なものであって、この隙間のないような雑踏もまた甘美な背景なのかも知れないが。おそろしげな恋ではある。
  やはり、歌というものは、歌の世界の想空間の中で固有のイメージを勝手に膨らませて聴くのが良さそうである。

  伝法院通りが終わり、馬道通りとの交差点(「浅草二丁目」)を左折する。車がたくさん走る排気ガスの道路ではあるが、少し深呼吸ができる気がする。ここを左折して浅草寺からあまり離れない方向を選んだのは、浅草寺をぐるりと、距離を置いて廻ってみようと思ったのである。


Photo H 伝法院通りから左折した馬道通り。
  北進して「二天門前」交差点までくると、人通りの少ない道の奥に浅草寺の東側面が見える。その前に見えるのが二天門なのであろう。人の少なさに誘われるが、さっきの仲見世通りの人たちが、あの本堂の屋根の流れ落ちるあたりに殺到していることを思うと、そのまま北進するしかないのであった。


Photo I 馬道通りから見る浅草寺二天門と本堂前面。
 
  道は言問通り「馬道」交差点に出る。浅草寺の裏手に回ってみようと、左に曲がったとき、私とは逆に言問通りから馬道通りに入ろうとする小さな赤いバスが見えた。
 「めぐりん」と書かれていて、観光名所をめぐる循環バスらしい。仕事で出かけた幾つかの都市でも、これに似たようなバスを見かけた。観光地の定番になっているらしい。
  乗ったことはないが、仙台にも市内の観光名所をぐるぐる循環する小さなバスがあって、「るーぷる仙台」と名付けられている。市内の観光名所とはいうものの、かつての私の勤務先が含まれていたりして、私自身にはたいしてそのような実感はないのであるが。
 

Photo J

馬道通りと言問通りの交差点(「馬道」)を曲がる循環バス。


Photo K 言問通りから浅草寺裏へ。
 
   言問通りを西へ少し歩くと、浅草寺本堂の背面が見える道があって、本堂の裏へ入って見る。本堂は改修中らしく全体が大きく囲われていた。裏手には大きな木々があるが、季節柄、針葉樹以外はよく分からない。広葉常緑樹については、東北の人間は知識が薄い(そんなことはないか、私だけか)。
 
 
       (浅草寺)
  さみだれの微粒ふりこむみ堂の裏公孫樹の緑あふれ繁りたつ 
                           坪野哲久 [2]

   夏であればさもありなん、ということだ。本堂裏にはトイレがあり、それを使わせてもらいながら、ここで少し息を入れた。

  浅草寺裏から言問通りに戻ると、そこは「浅草観音堂裏」交差点であった。そういえば、本堂と私が呼んでいたのは「聖観音」を祀ったお堂なのである。交差点の向こうは、商店街らしく、浅草観音堂「裏」の商店街というのも興味ぶかいのだが、諦めて言問橋に向かった。
 

Photo L 言問通り「言問橋西」交差点から言問橋方向。


Photo M 言問橋上流、隅田公園、隅田川のパノラマ。左が上流。
 

  言問通りを進むと、正面、隅田川の向こうに建設中の「東京スカイツリー」が見えてくる。とはいっても、じつは、ここを歩いた時点では、ただ単に「大きい何か」を建設中というように見ていて、とくに注意を惹いたわけではない。しばらく経ってから、テレビの大騒ぎでそういうものであることを知ったのだ。
   正直のところ、今でもあまり興味がない。現代の技術が可能なことを可能なように作っているということである。ただひたすらに高いということも、電波塔なら当たり前だろう、と思ってしまう。長い間(括ってしまえば)「科学技術」の領域内で仕事をしてきたこともあって、新奇感がないのである(仕事不熱心と言うことかもしれないが)。
   もちろん、「東京タワー」のように長い時間をかけて次第に人々の生活の風景になれば、話は違ってくるだろう。30年もすれば、見に来たくなるかも知れない(生きてはいないか)。

  言問橋の西詰めから隅田公園に入ると、「言問橋の縁石」と表示された加工石が地面に置かれている。「一九四五年三月十日、東京の大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました」という説明があり、当時の橋の縁石を記念石として保存している、ということである。

  言問橋の下をくぐり、隅田公園を川沿いに下流へ向かう。川岸と言っても、直線のコンクリートである。途中に丸太遊具コーナーがあって、たくさんの若い母親と子供たちが遊んでいるのであったが、風体人相正しからざる(であろう)人間としては、不安を与えないようにできるだけ離れて、急ぎ足で通りすぎたのである。  


Photo N 隅田公園。東部鉄橋をくぐったあたり。
 
   東部伊勢崎線が隅田川を渡るあたりで、公園から一般道に移る。東部浅草駅北側の陸橋をくぐるが、その雰囲気の良い古さ、雑多さに思わずふり返って撮ったのが Photo O である。田舎育ちでも「ガード下」には「非日常的な日常感」のような感興が湧くのだ。 


Photo O 東部浅草駅陸橋をふり返る。
 

Photo P 雷門通り「吾妻橋」交差点から吾妻橋方向。
 
  「ガード下」の道をまっすぐ進むと、さっき通った馬道通りと伝法院通りが交わる「浅草二丁目」交差点に出る。今度は逆に、馬道通りの右側のアーケードのある舗道を南へ、吾妻橋西詰めのほうへ曲がる。
   「吾妻橋」交差点も、雷門通り(浅草通り)と江戸通りが交差する場所に馬道通りがぶつかる五差路である。言問橋と同じように、今日は吾妻橋も渡らない。隅田川以西に限って歩くということである。   
   
 

Photo Q 雷門通り、雷門の東側。


Photo R 雷門通り西端「雷門1丁目」交差点から国際通り北方向を見る。
 
  吾妻橋から雷門通りを、今日の最終地点と決めたJR上野駅方向にまっすぐ歩くことにする。たぶん寄り道はするだろうが、気分は帰り足である。

   雷門近くの道脇には人力車がずらーっと並んでいて、雷門の前では若い車夫と若女性が何組も話(交渉?)をしている。そんな人混みのなか、私は少し急ぎ足である。帰り足気分は、ぶらぶら歩きの敵のようだ。 
  雷門通りはずっと商店〈銀行などもあるが)が並んでいるが、商店街というわけではなく、繁華街と観光地の商店街を合わせたような雰囲気である。暮らしの街の商店街のようではない。
  そういった意味で、観音堂裏にちらりと見えた商店街はどうなっているのか、素通りしたくせに今頃になって少し興味が湧いてくるのである。
  いや、いかに初歩的で低次の興味とはいえ、ぶらぶら歩きに何か探索的な(大げさにいえば社会学的な)目的を持ちこむべきではない、と思う。本郷菊坂で思ったことの意味は、ぶらぶら散歩に文学史跡探訪のような目的を持ちこみたくないということだったはずだ。
  「たけくらべ」ゆかりの千足稲荷神社や鷲神社を訪ねて歩いてきた足のことも忘れて、そんなことを考えながら雷門通りを「雷門一丁目」交差点を渡ったところで右折し、国際通りを少し北に上がる。
 

Photo S 国際通りをすぐ左折した菊水通り。
 
  国際通りは20mも歩かないで細い道に左折すると、「菊水通り」と街路灯に表示が出ている。地図を見ると、道の左手は寺院だらけのはずだが、道沿いに並ぶ一列の一般の建物がきれいに隠しているようだ。
  道は狭いが、交通量が少ないからなのか、片側はずっとコインパーキングになっている。好もしげな小さな飲み屋さんが数多く並んでいる道でもある。

   2ブロックを過ぎると、「東本願寺」のコンクリート造りの大きな寺院が現れる。教徒の東本願寺〈たぶん、そこが本山〉との関係はよく分からない。そういえば、仙台の私の朝の散歩コースに「西本願寺」という寺院がある。こちらは小さな寺院なので、分院なのであろう。

   東本願寺裏の菊水通りを直進すると、「合羽橋南」交差点で「かっぱ橋道具街通り」に出る。さしあたって欲しい道具は特にないのだが、右折して道具街を歩いてみる。
 

Photo T

菊水通りは、東本願寺の裏を通る。

 


Photo U 「合羽橋南」交差点からかっぱ橋道具街通りを右折。

   私の妻は道具というものに拘らない。「弘法は筆を選ばず」と嘯く。「弘法大師は書の天才だから、筆を選ばないのだ。人一倍不器用で、料理も裁縫も凡庸からさらにずっと下の道を行ってる君が、道具を選ばないでどうするのだ」と、時には言ってみたりするが、まったくこたえる気配がないのである。あげくの果てに、うまくいかないことをためらいもなく道具のせいにする。   


Photo V かっぱ橋道具街通りを2ブロック歩いて左折した道。
 

Photo W

松源寺の長い塀に掛かっていたハンギングポット。

  
  上野駅に近づいていかなければならないので、道具街もすぐに左折して、細道に入る(Photo V)。右手、白い建物の向こう、小型トラックの止まっているあたりは松源寺(松源禅寺)という寺院で、黒い塀に囲まれている。
  その黒い塀にハンギングポットが並べられている。紫の葉ボタン、白花のアリッサム、姫性のヒイラギの組み合わせである。真冬の組み合わせとしては悪くない。我が家に はどの草(木)もあるので、真似てみようと思うのだが、アリッサムが冬の仙台で咲いてくれるかが問題である。
  松源禅寺の道隣りは、「矢先稲荷神社」である。江戸時代にこの辺にあった「三十三間堂」(元禄11年に消失)の鎮守神ということだ(境内に掲示の「旧町名由来」による)。街の一角にこのような神社があると、ほっとする。信仰心を持たない私でも、風景が落ち着くように思えるのだ。
  明治神宮や靖国神社を暮らしの一隅の風景として括ることは難しいが、土地神然とした神社は土地土地に必須の美を供している(と、私は信ずる)。
   


Photo X 矢先稲荷神社。
 
 

ただまっすぐに
街のとおりがつっぱしっているのもかなしいが
ふとしたまがりかどへきたとき
そこになにかしら
ひとだまのように
ぬらりとさびしいものがふらついているのをかんずることがある
                                                     
八木重吉「無題」全文 [3]

 

 

Photo Y

本覚寺東塀沿いの道。

 
  矢先稲荷を過ぎてすぐに右折すると「本覚寺」である。左の門柱に「本覚寺」、右に「日限祖師」という黒板の金文字で掲げられている。
  「日限祖師」は初見であるが、ネットによれば本覚寺の開祖で、江戸十祖師のひとりということである。これからも東京の街歩きを続けるとすれば、残りの九祖師の名前に出会える偶然があるかもしれないということだ(その気になって探さなければ無理だろうけれど)。 

Photo Z

Photo Y の道、「松葉小学校前」交差点。。

 

 
  本覚寺の前の通りを進むと、「松葉小学校前」交差点に出る。小学校の近くらしく、角には小さな文房具屋さんがある。直進すると、右に松葉小学校、その道向かいは公園である。
   松葉小学校の玄関の上に掲げられている「祝 創立105周年」と大きな文字を眺めながら過ぎ、次の十字路を右に折れる。つまり、松葉小学校の東面の道から南面の道へと曲がったのである。

   小学校というのも、地域地域に欠かせない風景の一つだろう。私が住む仙台に地域でも、小学校の学区が、きわめて緩やかではあるけれどもある種の地域共同体を形成している。
   最近は、統合によって大きな小学校、大きな学区にして、教育のコスト低減をはかるのが流行のようだが、一方で、地域共同体の崩壊を嘆く論調もずいぶん以前から多く見られる。短絡的な経費対効果で教育を考えずに、地域共同体形成に役立つ適正規模の小学校配置を考えれば、それも教育効果として大いに評価できるのではないか、地域共同体が生き生きとしている地区で子供を育てる、それこそが理想的な教育環境ではないか、などと考えながら歩いた。
 


Photo ZA 松葉小学校南面の道。

  火曜日の午後3時、授業中なのか、みんな下校したのか、小学校は意外に静かだった。

Photo ZB 「池の妙音寺」寺域内にある神社と池
  

   松葉小学校の南面の道を西進すると、「池の妙音寺」というこぢんまりした寺院の前に出た。内部を覗くと、たしかに東の本堂の西並びに池があり、さらに小さな神社が祀られている。
   覗いてみたかったが、寺内には誰もおらず静まりかえっていて、なんとなく遠慮で、足を踏み入れることができなかった。仏教であれ、キリスト教であれ、このような宗教施設は、布教活動ということもあって、一般人を歓迎するだろうことは分かっているのだが、一方で、信仰活動というごくごく私的な行いの場所に踏み込むような感じがあって、つい怯んでしまう。こちらには信仰心がないのだから、なおさらである。
   でも、「池の妙音寺」という呼称とその音感に
は、心惹かれる情がこもっているように感じる。

  「池の妙音寺」前を過ぎて右折すると、そこに妙音寺の山門があった。それにしてもこの辺は寺町のようである。左手には1区画に3つの寺が並んでいる。その1区画を北に歩くと、「東上野六丁目」交差点で、その角にも「板東報恩寺」という寺があった。「板東」という古地名付きの名称はちょっとカッコいい。

  「東上野六丁目」交差点を左折して、さらに少し西の上野駅方向に近づこうとする。寺は少なくなり、中小規模のビルが並ぶ、東京のありふれた典型のような街並みである(Photo ZC)。 

  

Photo ZC

「東上野六丁目」交差点(板東報恩寺角)から西に入った道。

  道は清洲橋通りで交差する。その清洲橋通りを、南へと左折した(Photo ZD)。右の門柱に「曹洞宗 龍谷寺」、左の門柱に「豊川稲荷霊場」と木製看板を掲げた寺院がある。
「池の妙音寺」もそうだったけれど、これは廃仏毀釈を乗り越えて残された神仏習合信仰の(寺+神社)なのか、廃仏毀釈の嵐の後に再現したものなのだろうか。激しい廃仏毀釈運動に曝された地域と、そんなでもなかった地域もあったということらしいが、明治政府のお膝元の東京では許されていたということなのかもしれない。例としては不適切かもしれないが、北朝鮮でも平壌市民は他地域の
住民と別格の扱いらしいことと似ていなくもない。 


Photo ZD Photo ZC の道から南に左折、清洲橋通り。
 

Photo ZE

上野下アパート。清洲橋通りから西に入る

 

   清洲橋通りが浅草通りに出る一本手前の道を東に右折する。そこに古いけれども風格のある4階建ての大きなアパートが現れる。淡いブラウンの鉄筋コンクリートの建築物で、煉瓦張りの門柱に「上野下アパート」という古い木製の表札がかかっている。
     このアパートは、表参道ヒルズがとって替わった同潤会アパートと同じく建設されたもので、16カ所建設された同潤会アパートとしては現存する唯一のものであるらしい [4]。マンションとは異なって、生活感溢れる大規模集合住宅である。同じような規模の集合住宅には公務員住宅などがあるが、人の入れ替わりが激しくて、生活感がほとんど顕れない。人が暮らすところに生活感が顕在化するというのは、根源的な自然というものではないか、と思う。

 
  上野下アパートの前の道を東進して、最初の交差点で左を見ると、浅草通りの向こうに大きな赤い鳥居が見える(Photo ZF)。下谷神社の鳥居である。上野駅に近づくわけではないが、寄り道をする。 
 

Photo ZF

浅草通り越しに下谷神社を見る。

 
  赤い大鳥居の内に石の鳥居があり、本殿脇には「東京下町 八社福参り」の案内があって、下谷神社や鷲神社など台東区の五神社と中央区の三神社の案内が掲げられている。住吉神社のある中央区佃が下町だということは分かるが、他の二つの神社がある日本橋が下町だという認識は私にはなくて、日本橋近辺をちゃんと歩いてみなくては、と思ったのだった。
 

Photo ZG

下谷神社の西、浅草通りと平行する細道。

    
     下谷神社を出て、再び浅草通りを横切り、上野下アパートから続く道に戻った。台東区役所に敬意を表わそうというわけでもなかったが、な面に一分を二階まで伸びている蔦に見とれた。
  見事なものであるが、11階建ての台東区役所の前面に伸びるような新種の蔦類を品種改良できたら面白いのではないか。びっしりと蔦の絡まる古城というイメージがあるが、現代建築と比べれば圧倒的に低いのである。
  エネルギー経済のための緑のカーテンが喧しく叫ばれているが、現状の植物種では低い民家のみで可能で、唱導している行政関係の建物には応用できないのである。台東区役所のように、かろうじて象徴的な展示に終わるしかないのだ。
  上野警察署の角を右折し、上野駅に向かって今日の街歩きを終わりにするつもりである。   
  

 

Photo ZH

台東区役所の南壁。


Photo ZI JR上野駅浅草口駅前。
 
  上野駅は、私のような年齢の東北人にとってはごちゃごちゃした感情を喚起する駅である。
   私の次姉は、父が出奔した後で中学を卒業したため、高校に進学できずに、一人でこの駅に降り立ったし、私と小学校、中学校が一緒だった同級生の三分の一近くは、集団就職列車で着いたこの駅から東京全域に散っていったのだ。そのうちの一人は三〇数年ぶりに出会ったとき、大泣きし、彼の人生のほとんどを私は知らないまま、激しく戸惑うしかなかった。
   しかし、違う東京もあるのだ。
 
 
 

あきらめよ都のぼりをあきらめよとて降るごとしみちのくの雪
                      
原阿佐緒 [5]

半円の虹立つ峡の北の空行きたけれども行かぬ〈東京〉
                        道浦母都子 [6]

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

                                               谷川雁「東京へゆくな」部分 [7]

 

 
   一人は激しく東京に憧れ、それを実現する。一人は〈東京〉との距離を正確に測りつつ矜恃を保ち、ひとりは強い思想を持って「東京へゆくな」と明晰な選択を促す。
   東京が人々にもたらす感情のヴァリエーションの厳しい豊かさは、昔も今も変わらない。
 


Photo ZJ JR上野駅屋上の通路。東端から上野公園方向を見る。
 
  上野駅に屋上通路があるとは知らなかった。ここを渡って公園口に行く。冬だが良く晴れ上がって少し暖かい午後、通路の両脇には「上野駅周辺滞留者」が多勢いるのであった。    



(2012/1/19)
  1. 福島泰樹「朔太郎、感傷」(河出書房新社 2000年) p. 109。
  2. 坪野哲久「現代日本文學大系95 現代歌集」(筑摩書房 昭和48年) p. 254。
  3. 「定本 八木重吉詩集」(彌生書房 昭和33年) p. 127。
  4. 「街歩き・東京2 渋谷-乃木坂-原宿(2)」
    三浦展「大人のための東京散歩案内」(洋泉社 2006) p. 26、p. 50、p. 104。
  5. 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 67
  6. 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 379
  7. 「谷川雁セレクションI 工作者の論理と背理」(日本経済評論社 2009年) p. 27。