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〔街歩き・東京 6〕 上野-入谷-浅草(2) 2010年1月19日 |
どこから浅草なのだろう、言問通りを歩きながら考える。そういえば、先ほどの鷲神社は「浅草酉乃市御本社」という看板を掲げていた。そこから「千束」という地番を歩いてきた。もうすでに浅草なのか、まだ浅草に着いていないのか、判然としない。 |
浅草は、演芸、芸能のような遊戯のカテゴリーでは東京の一つの中心である(あった?)ということから言えば、東京で暮らす人、暮らしていた人の心になにがしかの特異な接触点を持っているのだろうと思う。
しかし、当面の私の課題は、人酔いをする前に、この人混みをいかにすり抜けるかということである。とはいっても、東京の街歩きで、この辺をすっぽりとはずすというわけにはいかないだろう、というのは分かってはいる。 |
伝法院通りに入って、仲見世通りの方に向かう。じつに雑多な店が並び、私がこれまで見たことも触れたこともないような小間物、雑品が溢れていそうな雰囲気があり、かといって私の残りの人生に何ひとつ役立ちそうにない雰囲気もあって、次第に増えてくる人混みに押されるように、ただ通りすぎるだけである。 |
北進して「二天門前」交差点までくると、人通りの少ない道の奥に浅草寺の東側面が見える。その前に見えるのが二天門なのであろう。人の少なさに誘われるが、さっきの仲見世通りの人たちが、あの本堂の屋根の流れ落ちるあたりに殺到していることを思うと、そのまま北進するしかないのであった。 道は言問通り「馬道」交差点に出る。浅草寺の裏手に回ってみようと、左に曲がったとき、私とは逆に言問通りから馬道通りに入ろうとする小さな赤いバスが見えた。 「めぐりん」と書かれていて、観光名所をめぐる循環バスらしい。仕事で出かけた幾つかの都市でも、これに似たようなバスを見かけた。観光地の定番になっているらしい。 乗ったことはないが、仙台にも市内の観光名所をぐるぐる循環する小さなバスがあって、「るーぷる仙台」と名付けられている。市内の観光名所とはいうものの、かつての私の勤務先が含まれていたりして、私自身にはたいしてそのような実感はないのであるが。
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言問通りを西へ少し歩くと、浅草寺本堂の背面が見える道があって、本堂の裏へ入って見る。本堂は改修中らしく全体が大きく囲われていた。裏手には大きな木々があるが、季節柄、針葉樹以外はよく分からない。広葉常緑樹については、東北の人間は知識が薄い(そんなことはないか、私だけか)。 (浅草寺) さみだれの微粒ふりこむみ堂の裏公孫樹の緑あふれ繁りたつ 坪野哲久 [2] 夏であればさもありなん、ということだ。本堂裏にはトイレがあり、それを使わせてもらいながら、ここで少し息を入れた。 浅草寺裏から言問通りに戻ると、そこは「浅草観音堂裏」交差点であった。そういえば、本堂と私が呼んでいたのは「聖観音」を祀ったお堂なのである。交差点の向こうは、商店街らしく、浅草観音堂「裏」の商店街というのも興味ぶかいのだが、諦めて言問橋に向かった。 |
言問通りを進むと、正面、隅田川の向こうに建設中の「東京スカイツリー」が見えてくる。とはいっても、じつは、ここを歩いた時点では、ただ単に「大きい何か」を建設中というように見ていて、とくに注意を惹いたわけではない。しばらく経ってから、テレビの大騒ぎでそういうものであることを知ったのだ。 東部伊勢崎線が隅田川を渡るあたりで、公園から一般道に移る。東部浅草駅北側の陸橋をくぐるが、その雰囲気の良い古さ、雑多さに思わずふり返って撮ったのが Photo O である。田舎育ちでも「ガード下」には「非日常的な日常感」のような感興が湧くのだ。 |
「ガード下」の道をまっすぐ進むと、さっき通った馬道通りと伝法院通りが交わる「浅草二丁目」交差点に出る。今度は逆に、馬道通りの右側のアーケードのある舗道を南へ、吾妻橋西詰めのほうへ曲がる。 「吾妻橋」交差点も、雷門通り(浅草通り)と江戸通りが交差する場所に馬道通りがぶつかる五差路である。言問橋と同じように、今日は吾妻橋も渡らない。隅田川以西に限って歩くということである。 吾妻橋から雷門通りを、今日の最終地点と決めたJR上野駅方向にまっすぐ歩くことにする。たぶん寄り道はするだろうが、気分は帰り足である。 雷門近くの道脇には人力車がずらーっと並んでいて、雷門の前では若い車夫と若女性が何組も話(交渉?)をしている。そんな人混みのなか、私は少し急ぎ足である。帰り足気分は、ぶらぶら歩きの敵のようだ。 |
雷門通りはずっと商店〈銀行などもあるが)が並んでいるが、商店街というわけではなく、繁華街と観光地の商店街を合わせたような雰囲気である。暮らしの街の商店街のようではない。 そういった意味で、観音堂裏にちらりと見えた商店街はどうなっているのか、素通りしたくせに今頃になって少し興味が湧いてくるのである。 いや、いかに初歩的で低次の興味とはいえ、ぶらぶら歩きに何か探索的な(大げさにいえば社会学的な)目的を持ちこむべきではない、と思う。本郷菊坂で思ったことの意味は、ぶらぶら散歩に文学史跡探訪のような目的を持ちこみたくないということだったはずだ。 「たけくらべ」ゆかりの千足稲荷神社や鷲神社を訪ねて歩いてきた足のことも忘れて、そんなことを考えながら雷門通りを「雷門一丁目」交差点を渡ったところで右折し、国際通りを少し北に上がる。 国際通りは20mも歩かないで細い道に左折すると、「菊水通り」と街路灯に表示が出ている。地図を見ると、道の左手は寺院だらけのはずだが、道沿いに並ぶ一列の一般の建物がきれいに隠しているようだ。 道は狭いが、交通量が少ないからなのか、片側はずっとコインパーキングになっている。好もしげな小さな飲み屋さんが数多く並んでいる道でもある。 2ブロックを過ぎると、「東本願寺」のコンクリート造りの大きな寺院が現れる。教徒の東本願寺〈たぶん、そこが本山〉との関係はよく分からない。そういえば、仙台の私の朝の散歩コースに「西本願寺」という寺院がある。こちらは小さな寺院なので、分院なのであろう。 東本願寺裏の菊水通りを直進すると、「合羽橋南」交差点で「かっぱ橋道具街通り」に出る。さしあたって欲しい道具は特にないのだが、右折して道具街を歩いてみる。
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私の妻は道具というものに拘らない。「弘法は筆を選ばず」と嘯く。「弘法大師は書の天才だから、筆を選ばないのだ。人一倍不器用で、料理も裁縫も凡庸からさらにずっと下の道を行ってる君が、道具を選ばないでどうするのだ」と、時には言ってみたりするが、まったくこたえる気配がないのである。あげくの果てに、うまくいかないことをためらいもなく道具のせいにする。
上野駅に近づいていかなければならないので、道具街もすぐに左折して、細道に入る(Photo V)。右手、白い建物の向こう、小型トラックの止まっているあたりは松源寺(松源禅寺)という寺院で、黒い塀に囲まれている。 その黒い塀にハンギングポットが並べられている。紫の葉ボタン、白花のアリッサム、姫性のヒイラギの組み合わせである。真冬の組み合わせとしては悪くない。我が家に はどの草(木)もあるので、真似てみようと思うのだが、アリッサムが冬の仙台で咲いてくれるかが問題である。 |
松源禅寺の道隣りは、「矢先稲荷神社」である。江戸時代にこの辺にあった「三十三間堂」(元禄11年に消失)の鎮守神ということだ(境内に掲示の「旧町名由来」による)。街の一角にこのような神社があると、ほっとする。信仰心を持たない私でも、風景が落ち着くように思えるのだ。 明治神宮や靖国神社を暮らしの一隅の風景として括ることは難しいが、土地神然とした神社は土地土地に必須の美を供している(と、私は信ずる)。
矢先稲荷を過ぎてすぐに右折すると「本覚寺」である。左の門柱に「本覚寺」、右に「日限祖師」という黒板の金文字で掲げられている。 「日限祖師」は初見であるが、ネットによれば本覚寺の開祖で、江戸十祖師のひとりということである。これからも東京の街歩きを続けるとすれば、残りの九祖師の名前に出会える偶然があるかもしれないということだ(その気になって探さなければ無理だろうけれど)。 |
本覚寺の前の通りを進むと、「松葉小学校前」交差点に出る。小学校の近くらしく、角には小さな文房具屋さんがある。直進すると、右に松葉小学校、その道向かいは公園である。 松葉小学校の玄関の上に掲げられている「祝 創立105周年」と大きな文字を眺めながら過ぎ、次の十字路を右に折れる。つまり、松葉小学校の東面の道から南面の道へと曲がったのである。 小学校というのも、地域地域に欠かせない風景の一つだろう。私が住む仙台に地域でも、小学校の学区が、きわめて緩やかではあるけれどもある種の地域共同体を形成している。 最近は、統合によって大きな小学校、大きな学区にして、教育のコスト低減をはかるのが流行のようだが、一方で、地域共同体の崩壊を嘆く論調もずいぶん以前から多く見られる。短絡的な経費対効果で教育を考えずに、地域共同体形成に役立つ適正規模の小学校配置を考えれば、それも教育効果として大いに評価できるのではないか、地域共同体が生き生きとしている地区で子供を育てる、それこそが理想的な教育環境ではないか、などと考えながら歩いた。 火曜日の午後3時、授業中なのか、みんな下校したのか、小学校は意外に静かだった。 |
松葉小学校の南面の道を西進すると、「池の妙音寺」というこぢんまりした寺院の前に出た。内部を覗くと、たしかに東の本堂の西並びに池があり、さらに小さな神社が祀られている。
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道は清洲橋通りで交差する。その清洲橋通りを、南へと左折した(Photo ZD)。右の門柱に「曹洞宗 龍谷寺」、左の門柱に「豊川稲荷霊場」と木製看板を掲げた寺院がある。
清洲橋通りが浅草通りに出る一本手前の道を東に右折する。そこに古いけれども風格のある4階建ての大きなアパートが現れる。淡いブラウンの鉄筋コンクリートの建築物で、煉瓦張りの門柱に「上野下アパート」という古い木製の表札がかかっている。 |
上野下アパートの前の道を東進して、最初の交差点で左を見ると、浅草通りの向こうに大きな赤い鳥居が見える(Photo ZF)。下谷神社の鳥居である。上野駅に近づくわけではないが、寄り道をする。
赤い大鳥居の内に石の鳥居があり、本殿脇には「東京下町 八社福参り」の案内があって、下谷神社や鷲神社など台東区の五神社と中央区の三神社の案内が掲げられている。住吉神社のある中央区佃が下町だということは分かるが、他の二つの神社がある日本橋が下町だという認識は私にはなくて、日本橋近辺をちゃんと歩いてみなくては、と思ったのだった。
下谷神社を出て、再び浅草通りを横切り、上野下アパートから続く道に戻った。台東区役所に敬意を表わそうというわけでもなかったが、な面に一分を二階まで伸びている蔦に見とれた。 見事なものであるが、11階建ての台東区役所の前面に伸びるような新種の蔦類を品種改良できたら面白いのではないか。びっしりと蔦の絡まる古城というイメージがあるが、現代建築と比べれば圧倒的に低いのである。 エネルギー経済のための緑のカーテンが喧しく叫ばれているが、現状の植物種では低い民家のみで可能で、唱導している行政関係の建物には応用できないのである。台東区役所のように、かろうじて象徴的な展示に終わるしかないのだ。 上野警察署の角を右折し、上野駅に向かって今日の街歩きを終わりにするつもりである。
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上野駅は、私のような年齢の東北人にとってはごちゃごちゃした感情を喚起する駅である。 私の次姉は、父が出奔した後で中学を卒業したため、高校に進学できずに、一人でこの駅に降り立ったし、私と小学校、中学校が一緒だった同級生の三分の一近くは、集団就職列車で着いたこの駅から東京全域に散っていったのだ。そのうちの一人は三〇数年ぶりに出会ったとき、大泣きし、彼の人生のほとんどを私は知らないまま、激しく戸惑うしかなかった。 しかし、違う東京もあるのだ。
一人は激しく東京に憧れ、それを実現する。一人は〈東京〉との距離を正確に測りつつ矜恃を保ち、ひとりは強い思想を持って「東京へゆくな」と明晰な選択を促す。 東京が人々にもたらす感情のヴァリエーションの厳しい豊かさは、昔も今も変わらない。 上野駅に屋上通路があるとは知らなかった。ここを渡って公園口に行く。冬だが良く晴れ上がって少し暖かい午後、通路の両脇には「上野駅周辺滞留者」が多勢いるのであった。
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