ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <犬 1>

犬族降臨 --犬が来た日--

 

庭のそとを白き犬ゆけり。
 ふりむけて、
 犬を飼はむと妻にはかれる。
                 石川啄木 [1]

 

   私が初めて犬と暮らしたのは、小学2年の時である。家で犬を飼ったというわけではない。当時の進駐米軍の軍人かその関係者か定かではないが、アメリカに帰る際に飼い犬を手放し、通訳をしている日本人がそれを引き取ったのである。その人は、いずれその職を離れ、田舎に戻ってくるので、それまでの間、わが家でその犬を預かるということになったのだ。
  やって来たのは、ジャーマン・シェパードの牡の成犬である。犬は雑食ではなく、本来肉食系の生きものだということを認識するような犬で、肉などほとんど食べる機会のなかった家には全くの不釣り合いの犬であった。食餌の世話は母の仕事で、どんなものを食べさせていたのか、記憶にない。
  短期間だったので、シェパードとの記憶はほとんど無いのだが、唯一覚えているのは、母の使いをしたときのことである。家から小学校まで子供の足で20分くらい、さらにその先、40分くらい先にある集落まで映画宣伝ビラの配達に出かけたのだ。母はそのような仕事も引き受けていたのである(農村で農家でない一家が生計を立てるには、犬を預かる、映画のビラ配りをすると言うのも貴重な収入源なのである)。
  シェパードを引き連れてのお使いは、子供には少し誇らしく、勇んで出かけた。途中、農家が飼っているアヒルが4,5羽、大きなため池で泳いでいた。アヒルを見つけた瞬間、シェパードは敢然と狩りを開始したのである。7才の子供にジャーマン・シェパードを制御する術はなく、気がつけば犬はアヒルに向かって泳ぎ出しているのであった。
  当時の東北の農村では、鶏もアヒルも、そして犬も、昼間は放し飼いが多かったのだが、犬が鶏やアヒルを狙うなんて考えられないのである。少なくともそのような犬は農村の犬としては生きられないのだ。一番強く記憶に残っているのは、そのとき泣きたくなったという、自分の感情のありようである。実際に泣き出したのかもしれないが、それは覚えていない。結果がどうなったかも記憶にない。
  そんなことが犬と一緒にいることの初めての経験であった。

  小学校4年の時、母が子猫をもらってきてくれた。これは短命で、1年ほどたったある日、家から姿を消した。家裏の原っぱで近所の友だちと草野球をしていたとき、打球が草叢に入って皆でそれを探したがなかなか見つからない。あきらめずに繁みの奥まで入って探していた私が、ボールのかわりにその猫の屍骸を見つけたのである。泣きじゃくる私を叱りつける母親と、埋葬するために杉林の中の坂道を登っていったことを記憶している。茶虎のおとなしい牝猫であった。

【クロ】

  中学2年の終わり、13才になったばかりの頃である。私は、左肩の鎖骨骨折で、胸から肩に掛けてギブスを巻かれ、左手を三角巾で吊っていて、不自由でつまらなく過ごしていた。グランドを均すコンクリート製ローラーの鉄の弾き棒をはずして、鉄棒代わりに遊んでいて骨折したのだ。級友と交替で遊んでいて、私が逆上がりをした時に、級友が支えきれなくなって肩から落下したのである。人生で二回目の骨折だった。
   そんなことがあってつまらなく過ごしていた時に、長姉からの手紙が届いて、子犬がいるので飼わないかというのであった。母とのやりとりは記憶にないので、すぐに承知してくれたのだと思う。さっそく、ギプス、三角巾の格好で犬を貰いに出かけたのである。

   姉は、東北本線で四時間ほどの南の町に嫁いでいた。犬好きの義兄が仔犬をもらったものの、まだ借家暮らしで飼うのは難しいという、夫婦の結論になったらしいのである。

  姉の家に着いて、さっそく犬に会ったのだが、子犬ではないのである。手紙のやりとりのうえ、中学校の春休みまで待つ間に十分に育っていたのである。義兄は、もうこれ以上大きくならない、としきりに言う。母と二人ぐらしの家でも飼うのに不都合はない、大丈夫、と言いたかったらしい。

Photo A

家に来てすぐの頃のクロ。もうこんなに大きくなっていた。(昭和35(1960)年4月)


  この黒犬は、「チッキ」として貨物列車に乗せられ、我が家に送られた。先についた私が、駅で待っていると、「おとなしい犬だね」と言いながら駅員さんが運んできてくれた。その後、この犬はおとなしいという評価を返上する。

  見た通りの黒犬は、じつに簡単に「クロ」ということになった。 母と私では、命名にあたっていろいろと考えをめぐらす、などということはないのである。猫を飼い始めたときも、茶トラだったので、あっさり「ニコ」と名付けられた。単純に二毛、三毛からの連想である。
  この名前の単純、率直さは実に有用で、町中の人は容易に名前を覚えてくれることになる。時代と田舎という場所に許されて、この犬は、町中を歩き回り、私を知らない人でも、クロを知っている人は大勢いたのである。

   私は17才で家を離れた。往復五時間ほどかけての高校通学では勉強がままならない、と心配した兄たちの決断で、仙台の知人の家に預けられたのである。人生のほんの一時的なことのような気分で家を出たが、それっきり仙台で暮らしつづけている。
  私が家を離れると同時に、クロは母とともに次兄の家に移った。長兄は婿養子となって家を出ていたので。次兄が家を継いだのである。継ぐべき財産もなく、母は借家を明け渡して同居したのだが、当時の田舎では、家督、跡取りという考えは大切に残されていたのだ。

  クロとは、年に数回会うだけになってしまった。私が結婚してまもなく、11年を生きて、クロは死んだ。

 

ネロ
もうじき又夏がやってくる
お前の舌
お前の眼
お前の昼寝姿が
今はっきりと僕の前によみがえる
お前はたった二回程夏を知っただけだった
僕はもう十八回の夏を知っている

……(中略)……

ネロ
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ 

     谷川俊太郎「ネロ ─愛された小さな犬に」部分 [2]

 

【ホシ】

  息子が生まれ、娘が生まれ、二人とも小学生になり、犬を飼おうと皆で決めた。息子は小学5年、娘は3年になっていた。息子はずっと犬を飼いたいと言っていた。

 

「……一番ほしかったのはきしゅうけんの白のおすでした。ぼくが犬を買ったら、ほけんじょへいってきょう犬びょうのちゅうしゃをしてもらい、にわに犬ごやをつくってつないでおいて、おてとおすわりとマグニチュード六をおしえたいです。マグニチュード六はおしえられないと思います。できたら、テレビきょくによばれて、きしゃかいけんをされるでしょう。」   

 

  これは、小学2年の息子が誕生日のプレゼントのリクエストについて学級文集に載せた作文の1部である。「マグニチュード六」が何なのか、私にはまったくわからない。そんな言葉を息子から聞いたような気もするが、内容についての記憶はまったくない。
  とまれ、カワラヒワを飼ったのが唯一のイキモノ経験の妻とおばあちゃん(妻の母)の微妙な逡巡も、息子の作文から2年たったその頃には消えていたということなのである。

   地方新聞に個人発の情報案内のコーナーがあって、そこから「柴系の雑種の仔犬を譲りたい」という記事を見つけて、その家に連絡した。国道48号線(作並街道)、大崎八幡神社前で飼い主と待ち合わせということになった。
  私と息子と娘、3人揃って鳥居の前で待っていると、自家用車の後部座席に乗せられた2匹の仔犬がやって来た。1匹は茶と白のブチで、みんなで覗きこんでいるのに目も覚まさず寝込んでいるのであった。もう1匹は黒と白のブチで、起き上がって不安そうに私たちを見ている。

   こういうシチュエーションでは、ぐっすり寝ているほうが肝が据わっている良い性質の犬なのである。が、そうは思っても、眼を合わせてしまうと、あっさりと事は決まってしまうのであった。
  犬に関するつまらない知識はおくびにも出さず、「この犬にする?」と子供たちに聞くと、否も応もないのである。子供たちも眼を合わせてしまって、その眼を離せないでいたのだ。


Photo B 初めて家に来た日のホシと息子。まだ少し緊張している。
(昭和59(1984)年6月15日)

  こうして、黒と白のブチの仔犬が選ばれ、息子に抱かれて我が家にやってきたのである。日が長い季節であったが、すでに日は暮れかかっていた。大崎八幡神社から我が家までは、子供の足で30分近くかかる。子供たちととりとめもなく犬の話をしながらの道は、記憶の中でも最良の散歩の一つである。
  この道で犬の名前が決まった。夕暮れ時で、息子は「イチバンボシ」が良いと言い、それでは長いから「ホシ」ではどうかと私が修正案を出し、娘がそれで良いと言って、黒と白のブチの仔犬はホシとなったのである。


Photo C 少し緊張がとけて、おばあちゃんの側でくつろいでいる。
(昭和59(1984)年6月15日)


   ホシは、最後の3年ほどは要介護犬としてその17年の生を生きて、平成12(2000)年8月3日に、前日に入院した動物病院で死んだ。8月1日に仕事で家を出た私が、リオデジャネイロの空港に降り立ったころである。それから2週間、ブラジルでホシの夢を何回か見たが、家には電話は掛けられなかった。

  ホシが死んだころには息子も娘を家を出ていて、家は妻と私、義母の3人だけになっていた。「もういい。もう十分。」 ホシの死を看取り、火葬から骨拾いまで一人でやった妻は、そう言うのである。
  私がやったことといえば、民芸店で小鹿田焼の小さな蓋付き壺を探しだし、紙袋に入っていたホシの骨を移し替えたことぐらいである。壺には入りきらず、残りは、ホシが犬小屋からいつも眺めていた庭のツバキの根元に撒いた。

 

犬小舎が空っぽなのは
犬が出かけているということ
犬小舎の中に植木鉢が置いてあるのは
犬が死んだということです。

           高橋順子「死んだ時計 5」全文 [3]

 


【イオ】


  3ヶ月ほどはホシのことをぶつぶつ言い合いながら暮らした。死んだ犬の思い出話は楽しくない、犬の悲しみは犬にしか慰められない、などと言うことも口の端のにぼるようになると、新しい犬だという結論まではあっという間であった。

  妻が、仙台市の動物管理センターで月初めに生後3ヶ月の仔犬の譲渡会があるということを調べてきて、さっそく申し込み、12月1日に妻と勇んで出かけたのである。だが、これはいくぶん辛い経験であった。
  譲渡候補の仔犬は15匹前後、譲渡希望者はたった5組、しかもそのうち2組は気に入った犬がいないとそのまま帰ったのである。私たちは顔を見合わせ、何も言えず、残った仔犬の行く末を想像しないようにしていたのだ。

  すぐに私たちは15匹の中から1匹を選んだ。その犬の檻の前後には、良く似た仔犬が入っていて、兄弟/姉妹犬の1匹らしかった。15匹のほとんどは、がやがや話し声を上げながら檻の前を行ったり来たりする人間たちに半分は怯え、半分は声をかけられたいのか小さな尾をしきりに振っているのだ。

  そんな犬たちの中で、怯えもせず、尻尾も振らず、斜に坐って、前面の網に右肩で寄りかかって通りすぎる人間たちを眺めている犬がいたのだ。
  その犬を見たとき、「はすっぱ女」という言葉が浮かんだ。3ヶ月の仔犬にはまったくふさわしくないが、田村泰次郎の小説に出てくるような、戦後の混乱期をたくましく生きた娼婦たちのイメージである。絶望やあきらめを通り抜けたような、静謐さ、無表情で、しなだれかかっているのである
[4]
  
  その「はすっぱ女」が気に入って、妻のほうを見ると、どうも妻もその気になっていたらしく、決定は躊躇なかった。あとは、抽選はずれにならないよう、他の人に気に入られないことを祈るだけである。「はすっぱ女」はやはり牝であった。


Photo E これが「はすっぱ女」。これから動物管理センターから我が家に向かう。
(平成12(2000)年12月1日)


   仔犬は助手席の妻に抱かれて我が家に行くのだが、25分ほどのドライブの最後に、妻の胸に吐いてしまった。その1週間ほど後にも車の中で戻したが、その2回を乗り越えると、無類の車好きになって私を困らせることになるのだ。

  ホシと同様、初めての我が家に戸惑い、不安そうであったものの、2時間ほどたったら居間の真ん中で長々となって熟睡しているのである。「しょうがない。この家で生きていこう。」と覚悟するのに2時間である。ホシは6時間ほど要した。大きくなっていたクロには初めから不安そうな様子はなかった。

  ホシは「星」だったので、月かなんかに因んだ名前がよいだろうということになったものの、「ツキ」は直裁でちょっと変、「ルナ」なんてのは気恥ずかしい。アメリカの探査機ガリレオが木星に向かって飛び続けている頃だったし、ホシは一番星、金星由来の名前なので、それなら木星の月(衛星)にしようということで「イオ」に決まった。
  「io」はゼウス(ジュピター)に誘惑されるギリシャ神話の女神に由来するのだが、これもネーミングとしては図々しいというか、いくぶん気恥ずかしさもあるので、女神の話は知らなかったことにしたのである(その時は)。

  イオは我が家での10年を、車で山へ出かけることを無情の喜びとして生きている。

Photo D

我が家の初日のイオ。段ボール箱の臨時ベッド。
(平成12(2000)年12月1日)



(2011/5/25)
  1. 石川啄木「一握の砂 他」(日本文学館 2003年) p. 201。
  2. 「谷川俊太郎詩集」(思潮社 1965年) p. 122。
  3. 高橋順子「詩集 普通の女」『高橋順子詩集成』(書肆山田 1996年) p. 260。
  4. 「はすっぱ女」をけっしてネガティブに感じていたわけではない。前田愛は書いている。「きれいにうちならされた焼跡の瓦礫を地にして、いっさいの虚飾をはぎおとされたぎりぎりの人間の生が、鮮烈なイメージを浮上させる。『肉体の門』の娼婦たちの澄んだ瞳と、『雪のイヴ』の少女のつめたく、きびしい「肉体の部分」とが意味するものは、同じ方向を指し示している。いいかえれば、かれらがまのあたりにした荒廃の風景が放射している負のエネルギーは、めいめいの文学的個性の差異をこえたところで強力に作用しつづけていたわけであり、それは「虚無」というような手頃な言葉では要約しきれない何かなのである。」 (『都市空間のなかの文学』 筑摩書房、1982年、p. 419)。