犬族降臨 --犬が来た日-- |
私が初めて犬と暮らしたのは、小学2年の時である。家で犬を飼ったというわけではない。当時の進駐米軍の軍人かその関係者か定かではないが、アメリカに帰る際に飼い犬を手放し、通訳をしている日本人がそれを引き取ったのである。その人は、いずれその職を離れ、田舎に戻ってくるので、それまでの間、わが家でその犬を預かるということになったのだ。 |
【クロ】
この黒犬は、「チッキ」として貨物列車に乗せられ、我が家に送られた。先についた私が、駅で待っていると、「おとなしい犬だね」と言いながら駅員さんが運んできてくれた。その後、この犬はおとなしいという評価を返上する。 |
見た通りの黒犬は、じつに簡単に「クロ」ということになった。
母と私では、命名にあたっていろいろと考えをめぐらす、などということはないのである。猫を飼い始めたときも、茶トラだったので、あっさり「ニコ」と名付けられた。単純に二毛、三毛からの連想である。 この名前の単純、率直さは実に有用で、町中の人は容易に名前を覚えてくれることになる。時代と田舎という場所に許されて、この犬は、町中を歩き回り、私を知らない人でも、クロを知っている人は大勢いたのである。 私は17才で家を離れた。往復五時間ほどかけての高校通学では勉強がままならない、と心配した兄たちの決断で、仙台の知人の家に預けられたのである。人生のほんの一時的なことのような気分で家を出たが、それっきり仙台で暮らしつづけている。 私が家を離れると同時に、クロは母とともに次兄の家に移った。長兄は婿養子となって家を出ていたので。次兄が家を継いだのである。継ぐべき財産もなく、母は借家を明け渡して同居したのだが、当時の田舎では、家督、跡取りという考えは大切に残されていたのだ。 クロとは、年に数回会うだけになってしまった。私が結婚してまもなく、11年を生きて、クロは死んだ。
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【ホシ】
これは、小学2年の息子が誕生日のプレゼントのリクエストについて学級文集に載せた作文の1部である。「マグニチュード六」が何なのか、私にはまったくわからない。そんな言葉を息子から聞いたような気もするが、内容についての記憶はまったくない。 |
こうして、黒と白のブチの仔犬が選ばれ、息子に抱かれて我が家にやってきたのである。日が長い季節であったが、すでに日は暮れかかっていた。大崎八幡神社から我が家までは、子供の足で30分近くかかる。子供たちととりとめもなく犬の話をしながらの道は、記憶の中でも最良の散歩の一つである。 ホシは、最後の3年ほどは要介護犬としてその17年の生を生きて、平成12(2000)年8月3日に、前日に入院した動物病院で死んだ。8月1日に仕事で家を出た私が、リオデジャネイロの空港に降り立ったころである。それから2週間、ブラジルでホシの夢を何回か見たが、家には電話は掛けられなかった。 ホシが死んだころには息子も娘を家を出ていて、家は妻と私、義母の3人だけになっていた。「もういい。もう十分。」 ホシの死を看取り、火葬から骨拾いまで一人でやった妻は、そう言うのである。 私がやったことといえば、民芸店で小鹿田焼の小さな蓋付き壺を探しだし、紙袋に入っていたホシの骨を移し替えたことぐらいである。壺には入りきらず、残りは、ホシが犬小屋からいつも眺めていた庭のツバキの根元に撒いた。
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そんな犬たちの中で、怯えもせず、尻尾も振らず、斜に坐って、前面の網に右肩で寄りかかって通りすぎる人間たちを眺めている犬がいたのだ。
仔犬は助手席の妻に抱かれて我が家に行くのだが、25分ほどのドライブの最後に、妻の胸に吐いてしまった。その1週間ほど後にも車の中で戻したが、その2回を乗り越えると、無類の車好きになって私を困らせることになるのだ。 ホシと同様、初めての我が家に戸惑い、不安そうであったものの、2時間ほどたったら居間の真ん中で長々となって熟睡しているのである。「しょうがない。この家で生きていこう。」と覚悟するのに2時間である。ホシは6時間ほど要した。大きくなっていたクロには初めから不安そうな様子はなかった。 ホシは「星」だったので、月かなんかに因んだ名前がよいだろうということになったものの、「ツキ」は直裁でちょっと変、「ルナ」なんてのは気恥ずかしい。アメリカの探査機ガリレオが木星に向かって飛び続けている頃だったし、ホシは一番星、金星由来の名前なので、それなら木星の月(衛星)にしようということで「イオ」に決まった。 「io」はゼウス(ジュピター)に誘惑されるギリシャ神話の女神に由来するのだが、これもネーミングとしては図々しいというか、いくぶん気恥ずかしさもあるので、女神の話は知らなかったことにしたのである(その時は)。 イオは我が家での10年を、車で山へ出かけることを無情の喜びとして生きている。
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