ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <犬 2>

パトロールの日々 (クロ)

  ふはふはと歩みておれば地べたより老犬クロに一瞥されぬ
                           
竹山広 [1]

   クロと私は、私が14才から16才までの3年間しか同じ家で暮らしていない。17才になってすぐ、私は故郷を離れ、仙台で暮らすようになる。クロは、母に従って次兄の家に引っ越した。
  3年間は確かに私が飼い主だったけれども、その後は次兄が飼い主となったのである。誰が飼い主かなどという取り決めや話はまったくなかったのだけれども、家族の誰もが自然にそんなふうに理解していていた。

  私がたまに帰郷すると、クロと私はいつもひっついていて、クロにしてみれば、非日常的な日々ということになる。帰郷してすぐの私の仕事は、たいていの場合、長毛だったクロのブラッシングとシャンプーが普通だった。
  どちらも嫌いなクロは、開放されると家の前の畑を縦横無尽に、つまり畑の作物など頓着せず、濡れた体で全力で走り回り、ころげまわるのであった。私の家族は農家ではないので、当然ながら人様の畑を荒らしているのだが、持ち主は土まみれになったクロを見て笑っているのであった。私は戦々恐々としているのだったが。

   私の不在の時がクロにとって普通の毎日で、それを私が見ることはもちろんできなかったのである。
  これは母や兄たち、故郷の知人たちの話の総合である。

  クロは朝夕二度、餌をもらう(これは、その後のホシもイオも同じである)。朝食を終えると、次兄の家族は母を残して家を出る。次兄夫婦は仕事を持っていたし、二人の甥はそれぞれ小学校や幼稚園に出かける
  母だけになった家で、食後の30分から1時間程度を過ごしたクロもまた、どこかに勤務先があるが如く毎日次兄宅(地図ポイント1)から出かけるのだそうである(ここまでは母の話)。

  クロがその1日をどの道をどう歩いたかはじつはよくわからない。クロが生きていた町(私も16才まで暮らした町だが)の地図を掲げ、クロが歩いたであろう道を示しているが、これはあくまで目的地のある人間が歩くであろうコースであって、犬が同じように歩くという根拠はとくにないのである。

  まずはじめにクロが目撃されるのは、地図ポイント2の中学校である。中学校の玄関を入り、コンクリート床に寝そべっているのだそうである。
  当時、この町の中学校には長兄が教頭として勤めていて、その長兄への表敬訪問らしいのである。クロは長兄と一緒に暮らしたことはないのだが、家族の一人と認めていたのだろう。


クロのパトロールコース  (地図のベース:「プロアトラスSV4」)

  町中の中学生に声を掛けられ、撫でて貰いなどしているうちに、仕事の合間を見つけて現れた長兄に声をかけてもらうまで中学校の玄関に居続け、長兄との挨拶が終われば姿を消すのである。ここまでは長兄の話。

  次に姿を見せるのが、地図ポイント3の町立病院である。やはり、玄関の三和土に寝そべり、町中の病人の挨拶を受けているのだ。ここには義姉(次兄の妻)が事務職として勤めていて、玄関近くに事務室があるので、義姉がクロに気付いて声をかけてくれるまではそんなに時間がかからず、中学校ほどは長居ではなかったらしい。義姉の話である。

  病院を出たクロは、地図ポイント3の町役場に現れる。ここには次兄が勤めていた。玄関で寝ていたり、うろうろしていたらしいが、やはり次兄が声をかければまもなく姿を消すのだそうである。しかし、玄関から離れた場所にデスクがあるうえに、町中のいろんなところに出かける職種の次兄が、クロに声を掛けられるチャンスは多くなく、そんなときには1時間ほどで姿が見えなくなったということである(次兄と役場の職員の証言)。

   この後の行動は、突き合わせが十分ではないので、町役場を出た後の行動かどうかは直接の証拠はない。ここまでの行動は週日のほぼ毎日で、この後の行動もかなりの頻度で目撃されているので、やはり町役場の後の行動であったろう。

  町役場を出て北への道を(人間の足で)15分ほど歩くと、クロと母と私が一緒に暮らした旧宅につく。この道の途中には両側が田んぼで堤防のように盛り上げられた場所がある。人家が途切れて、土手の両側には桜(ソメイヨシノ)の古木が並木をなしていて、美しい道だったのだが、母には恨みの場所である(この桜並木は今はない)。
  クロが家に来て、初めての狂犬病の注射で町役場に向かうとき、他の牡犬を見つけたクロが猛然と走り出してしまったのだそうである。牡犬として世界制覇の夢があったのである。止めようとした母は尻餅をついたのだが、そのままクロに引きずられて、砂利道で尻スキーをした、と母はカンカンであった。そんなことがあった道である。


Photo A 旧宅時代のクロ犬小屋はこの土間の左手にあるが、いつもここに出て
来て家の中の様子をうかがっていた。 (昭和36(1961)年頃)

うまれた家はあとかたもないほうたる    種田山頭火 [2]

  町役場を出たあとのクロは、この旧宅付近をしばらくうろついていたらしい。旧知の人がたくさんいて、声をかけてもらうのを楽しんでいたということだ。とくに、旧宅の隣2,3軒の家には、玄関に入り込んで挨拶したり、餌をもらったりしていた。母と仲がよかった旧宅の近所のおばちゃんたちの話である。

  こうしたパトロールを終えると、早ければ午後3時頃に帰宅する。時には遅くなるが夕餉には必ず間に合うように帰ってくる、と母は楽しそうに話していた。母の話を聞きながら、クロの巡回の間、家には母が一人残されていて、番犬という犬の欠かせない仕事を放棄してはいまいか、と私は思ったりした。
  しかし、次兄も義姉も家族である。長兄も家族の一員と認めれば、家族に対してあまねく公平に番犬としての恩恵をふるまっているとも考えられるのである。犬は自分の仕事が何であるかを理解しさえすれば、忠実にそれをこなす。ときにはその仕事に対する執着が強すぎることもあるが(イオがときどきそうなって私を困らせている)、犬としてはまったくまともなふるまいだったろう。

Photo B

この頃はパトロールの日々は終わっていた。ピクニックのクロ。結婚直後、妻と甥と。(昭和46(1971)年4月頃)

  このクロの巡回の日々も、数年で終わりになる。

  長兄は隣町の中学校へ転勤となり、次兄は独立(脱サラ)して行政書士や不動産鑑定などの事務所を開いた。義姉は次兄の事務所を手伝うこともあって、病院を辞職した。家人護衛のパトロール(?)は、必要がなくなったのである。

  コースの決まったパトロールは行われなくなったが、その後もクロの町内徘徊は続いていたようである。
  なにしろクロの知己は多いのである。この街には中学校は一つだけ、町内の中学生のほとんどははクロを知っている。町立病院では町内のお年寄りの多くを味方にしたらしい。町役場では、町内のバリバリの大人たちの面識を得ていただろう。私の知己などは、クロの顔の広さに較べたらいないも同然である。

  じつは、クロは私の知らない家で、最後を迎えた。次兄の家から見て小学校の向こう側の農家で、2日ほど世話になっていて容態が急に悪化したらしい。連絡を受けて次兄が行った時には、既に息を引き取っていたということだ。クロがそこで食餌をもらうことは何度もあったらしい。いつものように食餌を与えていても帰らないので不思議に思っていたという。弱ってしまい、帰る気力がなかったのだろう。

   クロが死んだ後、クロに食餌をやったという人があちこちから名乗り出て来たのである。町内のいろんな家で世話になっていたということだ。引っ込み思案の私とは違い、たいへん社交的に暮らした犬だったのである。
長兄や次兄への遠慮や気遣いもあっただろうが、町内の人は、クロにはたいへんやさしかった(らしい)のである。

  放し飼いのクロは、次兄宅の滞在を終えて仙台に帰る私をいつも見送ってくれる。家を出る私のあとをついてくるのである。しばらく一緒に歩いてから、もう帰れと言うと立ち止まって私の顔を見上げている。少し歩いてからふり返ると、10メートルほど離れてついてくる。叱られると思うのか、眼を合わせると家の陰ににスッと入ってしまう。また少し歩いてふり返ると、さっきよりは距離が広がるもののやはりついてきて、やはり私に気付かれると家の陰に入ってしまう。
  このくり返しである。駅前の道は大きく広がって、少し坂を登ると駅舎に着く。駅舎から駅前広場を望み、クロを探してみるがどこにも見つけられない。さっきまでは確実に後をついてきたはずなのに、いつも駅前では姿を見ることはない。私が駅に行くことの意味を知っているのだろうと思って、涙が流れそうになる瞬間である。別れはいつもそうなる。

  寒き道を何時までも従きてくる犬かわれは頒けてやる倖せもたぬ
                         中条ふみ子 [3]

   時代やロケーションに強く依存することとはいえ、クロはほとんどの時間を放し飼いであり、晩年に到っては、食餌をもらいつつ、町を歩き回ることが許されていたのである。ほんとうに、驚くほどの故郷の人々の寛容さである。
  いま、仙台で犬を飼っている状況からは、時間にも空間にも越えられないギャップが暗い空無のように開いているように思える。

  ミュンヘンからガーミッシュ・パルテンキルヒェンへ向かう列車に大型のコリー犬が乗り込んできたり、ウィーンでは王宮に隣接する繁華街コールマルクト通りをイングリッシュ・セッター(たぶん)が悠然と歩いて行くのを目撃したりして、彼我の差に歴然とすることがあった。
  路上のカフェのテーブルに大勢の人が坐っていて、道にはたくさんの観光客もひしめいているのに、あたかもどこかの見知らぬ人間が急ぎ足で通りすぎたかのように、まるで無関心で犬の通過をやり過ごしているようなのである。その犬から眼が放せなかったのは、私だけだったのではあるまいか。
  また、ケンジントン・ガーデンズ(ロンドン)では、芝生の上を子供も犬も白鳥(アヒルも)も勝手に走り回り、飛び回っているのであった。鳥たちの糞で、お世辞にも美しいと言えない芝生の上で、鳥たちにちょっかいを出さずに走り回る犬たちとそれを怖れもしない鳥たち、という構図は日本ではほとんど見ることが不可能である。犬は犬でよく躾けられているのであろう。

   これらの国、都市での飼い犬規制のありようをよくは知らないのだけれども、古来から人間の同伴者として自然的、社会的地位を占めてきた犬たちは、いまもその地位を尊重されているらしいことだけはうかがえるのである [4]

  誰も彼もいなくなりたる公園に木霊となりて犬とわれ居り
                         道浦母都子 [5]

 
 いま、この美しい歌は東京で可能なのだろうか。最近、東京の街を歩いてみているが、街角にある小さな公園には、犬を入れてはいけないという規制看板をよく見かける。東京の人は犬を連れての散歩では、近所の公園に入れないということらしいのである。糞をする、尿をすると言うのが主な理由だろうと思う。残念ながら、犬の糞の始末が嫌な飼い主はどこにでもいる。
  でも、最近気になるのは「他の人の迷惑になるので」という文言が入ることである。犬がいること自体が迷惑になるというのはどういう事態だろう。「犬の嫌いな人もいるから」という言い訳を時として聞くこともある。犬が嫌いだから、公共の場所から排除せよ、という論理が公共道徳の顔を装って表出してきているのではないか、と思ったりして少し寒気がすることがある。

  排除の基底にあるのが、「好き嫌い」であるとすればこれは少し恐ろしいことと規定してもよい事象だろう。「俺はあいつが嫌いだ、俺が生きるこの社会からあいつを放り出せ。」 このような精神の薄汚さは、「たかが犬」のことだからこそ簡単に顕わになるのであろう。歴史から抽出して、身にまとうべき切実な倫理は確かに何度も再発見されて、繰り返し繰り返し学ぶべき機会は(不孝にも)何度もあったはずなのに。
  急激に近代化を果たした日本の「超資本主義」社会では、フーコー風に言えば、人は均質で代替可能な存在となるべく訓育されてきた。「多数性」(多様性ではない)が主要な審級で、大勢と異なるマイノリティはいつも排除される危険にさらされている。人間においてそうであってみれば、犬の排除がどれほどのことがあろうか、と多くの日本人は考えている、というのは私の穿ちすぎだろうか。不寛容の時代、不寛容の社会、日本の今に対するそれが私の実感である。
   世の中は時代とともに知恵を得て、知識を得て、発展し、良くなる、というのは明らかに蒙昧で愚かな幻想ではあった。

  クロは本当に良い時代、良い場所でその11年を生きて、そして死んだ。クロと同じ時間を生きた人々もおおかたいなくなった。クロの死よりずっと後であるが、義姉(次兄の妻)は2004年5月に亡くなり、2006年2月に102才で母が亡くなり、翌2007年7月には次兄も逝った。さらに3年後、2010年4月には長兄も逝ってしまった。

 

外には雨が降っているので
静かに 死んだ犬のことを考えている

家人が外からもどってくると
バネ仕掛のようにはねまわっては
とびついてきた犬のことを
いまは静かに考えてやっている

外にはただ雨が降っているばかりなので
               伊藤桂一「雨の日に」全文 [6]

 


  いや、私はクロのことばかり考えているわけではない。母のことも、兄たちのことも、クロの後に死んだホシのことも、五月晴れの日なのに思い出しているのだ。  

(2011/6/8)
  1. 「竹山広全歌集」(雁書館 2001年) p. 155。
  2. 「定本 種田山頭火句集」(彌生書房 昭和46年) p. 121。
  3. 「現代歌人文庫4 中条ふみ子歌集」(国文社 1981年)p. 61。
  4. この典型例ははアテネである。NHKの「世界ふれあい街歩き・アテネ」によれば、アテネ市内は野良犬がいっぱい歩きまわっている。ブティックの入口で野良犬が寝ていると、、店主と客は乳母車を抱えて犬を起こさないように店に入るのである。野良犬は定期的に捕獲され、健康状態を調べられ、健康であれば(引き取り手がない場合)、再びもとのアテネ市内に放されるである。日本では、犬どころの話ではない。ホームレスの人が定期的に無料で健康診断を受けるシステムがあるということを聞いたことは(少なくとも私には)ない。だからといって、「そのようなギリシャ人の心性がギリシャ国家が経済的に破綻する理由だ」というような短絡的な(ガチガチの新保守主義的な)議論に与する気は、私には全くない。
  5. 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 446。
  6. 「日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集」(土曜美術社出版販売 1999年) p. 118。