ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <犬 4>

対抗マーキングとその応用 (イオ)

  犬の糞すくひて人はまたあるくかかるリフレインを生活といふ
                          
小池光 [1]

   犬はマーキングをするものである。マーキングは切り離せない犬の属性である。切り離すことができなければ、犬の本質と言っても良い。種として分化して以来、犬はそんなふうに生きている。そんなことは当たり前のことだと思っていたのだが、最近は、「オシッコをさせるな」 という張り紙がやたらと多くなったような気がする。都会では犬は(私も)生きにくいのである。

   犬は犬として受け入れる、というのが犬を飼うことだと思っていた。育種の累乗によって愛玩犬として変異の果てまで進んだようなチワワとかトイプードルとかパグのような犬種も、普通にマーキング行為をするだろう、と思う。犬の育種に関わるような人たちが、犬の本性を否定する方向で育種を進めるとは想像しにくい。これは、雑種犬しか飼ったことのない私のただの推量だが。

  私が中学生のときはじめて飼った「クロ」という雑種犬は牡犬で、時代も場所もマーキングを意識するには程遠かった。犬の飼い主もそうでない人も、あちこちで犬がオシッコするのは当たり前のことで、誰も気に留めていなかったのだ。だいたい、ほとんどの犬が放し飼いで、放し飼いの犬のオシッコを気にするなんて不可能なのである。その後に飼った「ホシ」と「イオ」は牝犬なので、放し飼いではないもののマーキングのことはそんなに気にすることはなかった。

  牝犬のマーキングは、牡犬のような縄張り拡大の意図はほとんどなく、自分の生活領域にどんな犬がいるのかの確認が主で、すでにマーキングしてある場所に対抗的にマーキングをしておくという感じなのである。
  イオもまた、マーキングされた場所を確認し、対抗的にマーキングをするのだが、どうもすべてに対抗するわけではないらしい。競争的ポジショニングの牝犬のそれに重点的に対抗するのかもしれない、などと想像してみたりする。しかし、彼女は避妊手術をしているので、いかなる自覚があるのか定かではないが、厳密には牝としての競争関係は喪失しているはずなのだが。

   朝の散歩のときによく出会う「リンちゃん」という牝のラブラドール・レトリーバーというイオのライバル犬がいる。イオは必ず、彼女が直前にしたオシッコに対抗的にオシッコをかけるのである。
  リンちゃんには「ルーク」というシェットランド・シープドッグの牡の同居犬がいて、イオはルークのオシッコにも対抗的にマーキングをすることもないわけではないが、匂いを確認するだけの方が多い。


Photo A 「リンちゃん」(中、ラブラド-ル:レトリーバーの牝)と「ルーク」(右、シェットランド・ シープドッグの牡)。「リンちゃん」とイオの微妙な距離。これ以上近づくと、立 ち上がって取っ組み合い、押し合う奇妙なライバル同士。  (2005/9/13)

  イオにはマーキングに関してどうしても譲れないことがあるらしい。公園を散歩しているときに多いのだが、木立や繁みの中に強引に入ろうとする。引き止めるのを躊躇するくらい必死なのである。道を歩きながらのときのように、他の犬の匂いを調べるだけ、という雰囲気ではないのだ。
  繁みの中には必ずといっていいほど、ほかの犬のウンチがあるのだ。そこではオシッコをして、さらに周囲の地面を4,5回かきむしるという、いちばん丁寧なマーキングをする。もちろんウンチもまたマーキングの重要な手段であることはわかるが、執着の仕方はオシッコの比ではないのである。

  当然のことながら、イオもまた自分のウンチを重要なマーキングの一つと思っているらしいのである。ウンチをすると、そのまわりの地面を数回かきむしってマーキングも完成する。私がそのウンチを拾うと、急いでその場所の確認に来る。地面に残る臭気を確認して安心するようなのだ。
  ときどき、手にかぶせたポリ袋で、ウンチを受け取ることがある。その時も確認しようとするのだが、何かうろうろと落ち着かないというか、「どうした、どうした」という感じで慌てているように見える。ウンチが空中で消えてしまい、漂う臭気はあるものの、地面にはなんの痕跡もないことが理解出来ないのであろう。

   この執着の強さを見ていて、思いついたことがあった。広い公園
のなかで、犬のウンチ掃除をしようとしたら、この執着心は絶対的に役に立つ、効率的にウンチを見つけることができるはずだ、と思ったのだ。公園でウンチ拾いをしてみようとということになった。

  問題点はいくつかあった。朝の散歩が終わり、家で朝食をすませて、いよいよ初めてのウンチ拾いに出かけようとしたのだが、イオがいうことを聞かない。玄関を出るものの道に出ようとしない。
  実のところ、この行動はいつものことなのである。朝、晩の散歩は習慣となっていて、しかもウンチやオシッコの機会でもあるので、私を急かしても出かけるのだが、そのほかの時間帯の外出には、車で出かける以外は認めようとしないのだ。車で山に行く、知らない町を探索する、そんなことしか想像していないのであろう。
  朝と晩の散歩に公園のウンチ拾いを含めるとなると、長時間の散歩となって少し逡巡してしまう。退職したので時間は十分にあるとはいうものの、散歩には散歩にふさわしい時間というものがあるだろう、と思うのだがしかたがない。

   もう一つの問題は、どうやってウンチを拾うか、ということである。イオのウンチは、スーパーでもらう小さなポリ袋に手を突っ込み、直接手で受けたり、拾ったりして、ポリ袋を裏返して結び、そして小さな密閉容器
にしまう、という方法で拾う。
  しかし、知らない犬のウンチを同じ方法でというのは、なんとなく戸惑う。息子や娘が赤ん坊のとき、そのウンチの世話が何でもないことに気がついたときの軽い驚きのようなものを、思い出した。つまり、イオのウンチは何でもないのに、他の犬のはちょっと、という感じなのである。
  たまたまなにかのおまけでもらった小さなバッグ型のポーチがあって、黒いビニール袋がセットされているものがあった。このエチケット袋(と言うらしい)は少しもったいなくて使わないでいたのだが、黒いビニール袋というのは透明なポリ袋と比べれば、視覚的な遮断性は高いのだ。実に感覚的でつまらないことだが、こんな気分的なことでも、少しは気が休まるのであった。他の犬のウンチはこの袋で、ということにした。

  張り切って(というほどではないが)始めたのだが、めざましい成果というわけにはいかなかった。意外にウンチが少ないのである。たしかに散歩途中で見かけるウンチもあり、世間では、放置されたウンチについて大いなる注意喚起をする人たちが、公園は犬のウンチだらけかのような印象を与えるべく頑張っていると思っていたのに、これはどうしたことだろう、というくらい少ないのだ。

   はじめこそ、1度に3個ほど拾うこともあったが、たいていは1個ぐらいで、まったく見つからない日もかなりある。拍子抜けである。
  たとえばこういうことがある。毎日、ほとんど同じあたりで見つかる。これが4日ほど続く。後はしばらくなくなって、また同じようなことが起きる。同じ時間帯に散歩をする犬は、同じ場所でウンチをする確率が高い、ということから見ると、ウンチを拾わずに行く人は、どうもこの公園では一人か二人だけのようなのである。この公園に犬連れで集まる人はかなりいる。早朝に出会うのは、4,5人だが、昼前に通りかかると、集会を開いているのかと思うほど多い。それなのに、ウンチを放置する人の割合は想像を絶するほど低い。


Photo B なんか匂うが、ウンチじゃない。 (2003/8/12)

  それでも、私たちの印象は違う。結構な数の人が放置しているのではないか、と思っていた。しかし、冷静に考えてみれば、思い違いをするのは当然である。たとえば、たった一人の人が放置しても、三日たてば同じ付近に犬のウンチが三つも転がっていることになる(私のように他の犬のウンチを拾う人がいなければ、ということだが)。その人が、別の時間帯、別のコ-スを歩けば、そんな場所がもう一つ増える。大雨も降らずに10日もたてば、この公園には3カ所も犬の糞がまとまって放置される場所ができることになる。
  さて、その公園を歩き、そのうちの2カ所くらいに遭遇したとしたら、「この公園には犬の糞を放置する人がいっぱいいる」という印象を受けるだろうと思う。私だって絶対にそう思う。そうして、犬好きの私には本当に迷惑な話だ、と怒ることになるだろう。
  犬のウンチを放置する飼い主はほとんどいない、という結論をどう処理すればいいのだろう。ほとんどいないが少しはいるという飼い主のために、膨大な数の飼い主が不名誉を蒙っているのである。犬好きは、この不名誉に耐えねばならない、というのが結論であろうか。

Photo C

妻 「もしかしてウンチに顔をくっつけてない?」
   (2004/5/2)


  公園でのウンチ拾いを始めてから、ごく自然に散歩途中で通る町内の路上のウンチも拾うようになる。ところが、平均すると公園よりも拾うウンチが多いのである。たまに、イオのウンチより大きく、結構な大型犬のウンチを拾うこともあるけれど、小さいウンチがほとんどである。黒っぽい、ねっとりした感じの小さなウンチを2,3個拾うという日が続いたが、近所の人にそれは猫のウンチだと教えられた。それで得心がいった。町内の野良猫分布と小さなウンチの分布はほぼ一致していたのである。
  公園にもおよそ12,3匹の野良猫がいるが、猫のウンチと思えるものはほとんど見かけない。たぶん、イオが無視していることと、飼い犬と違って野良猫はウンチをする場所を人が通れない薮のなかにでも定めているためではないかと思う。

   私の住むところにも町内会があって、会報が定期的に届けられる。そこでは犬の糞が放置されていることがよく話題になっているが、猫のウンチが話題となっているのを見た記憶がない。小型犬のウンチくらいのサイズの猫のウンチが問題ないはずがないと思うのだが、本当のところはよくわからない。
  町内会報に書いてあるということは、もちろんなにかの手立てを考える必要があるということだと思う。しかし、拾って歩く経験から、明らかに猫の糞の方が多いのである。事実誤認があっては正しい手立てを考えることは難しいだろうと思うと、私は余計なお節介をしているのではないか、という気になる。正しい事実認識のためには、事実をそのままにしておく方が良いのではないかと思ったりするのである。だからといって、猫の糞だけ拾わないというのは、狭量な差別心のようで、悩ましいのである。

  ビニールのふくろにとりて犬の糞もちかえる人はこころいたまし
                                 小池光 [2]

(2011/9/10)
  1. 「現代短歌文庫65 続々 小池光歌集」(砂子屋書房 2008年) p. 35。
  2. 小池光「歌集 草の庭」(砂子屋書房 1995年) p. 178。