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〔街歩き・東京 1〕 渋谷-乃木坂-原宿(1) 2009年11月11日 |
東京には一度も住んだことはないし、とくに住みたいと思ったこともない。巷間よく聞くような「東京への憧れ」のような感情も、幼年期からこれまでまったくというほど生じなかった。その東京には、仕事(といっても学会、研究会や会議で、長くて5日、短くて日帰り)で行くことはたびたびあって、そのとき、地下鉄やJRで移動しながら、駅名を聞いては奇妙な感覚におちいることがしばしばあった。どの地名も「よく知っている」という感じになるのだ。しかし、「地名をよく知っている」という感覚がすべてで、それで終わり、それだけなのである。地名は「よく」知っているが、その土地はまったく見たこともないし、その地名を知った契機そのものも思い出せないのである。具体的なイメージはほとんど伴わないのだ。それでも「よく知っている」という実感なのである。
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最後のだめ出しは、その「ハンマースホイ展」からの帰り、仙台駅でJRの「大人の休日倶楽部」の広告を見て、妻は「ジパング」、私は「ミドル」というカテゴリーで入会したことによる。そこでのサーヴィスの一つに、「12,000円でJR東日本管内、3日間乗り放題、指定6回までフリー」というのがあった。つまり、新幹線指定席で仙台-東京往復を三日連続が12,000円で済むというわけである。
私は自分の暮らす仙台の街も良く「散歩」する。それに加えて最近は、暮らしたことのない宮城県内の町も犬連れで歩き回っているのである。このときの「町」は、仙台から近いとはいえ一応見知らぬ町なのである。しかし、都会でもない。どちらかと言えば、自然発生的にできた生活集落の発展型で、平成の大合併でむちゃくちゃになったが、かつては行政区分としての「町」とほぼ同じ地域を意味していた。 そこで、私の場合は仙台市内の場合は「散歩」、宮城県内の町のときには「町歩き」ということにしたい。東京の場合は、広い都会の街区の一部を歩くので、「街歩き」と呼ぶことにしようと思う。「街歩き」としたいのには、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組がとくに私のお気に入りだということもある。 |
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Photo F の道を200mほど歩いて左折すると、Photo G の道である。写真の右端に写っている桜の木は、樹肌から判断してソメイヨシノである。この道を2度折れて表参道に出る間にも桜の木があったが、それもソメイヨシノらしかった。ソメイヨシノは、小学校などの校庭に良く見られるように、明治近代化以降に植えられた桜である。しかもソメイヨシノは寿命が短いといわれている。仙台でも、江戸時代から続いているお屋敷の大木の桜にソメイヨシノはほとんどない。私はよく知らないけれども、この桜も、もしかしてこの地区の歴史を表象する一つかもしれない。 細い道を突き抜けて表参道に出ようと思ったのだが、突き当たりでだいぶ迂回しなければと思っていたら、ビルの脇から表参道の通りが見える(Photo H)。通行を禁止している雰囲気はまったくないので、そこをスルーした。 抜け出た広い通りを、いま「表参道」と書いているが、じつはその時点では何となく広い通りという認識しかなかったのである。地図を見ながら、国立新美術館まで文字どおり右往左往しながら歩くことが目的で、途中の自分の位置確認はしているものの通りの名とかには気が回っていなかったのである。「東京の地名」の現実存在をなぞるという当初の目的は、乃木坂を目的として歩くということにすり替えられていた。これは、国立新美術館のなかでゆっくり椅子にかけて地図を見ながら気づいたことである(情けない)。
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表参道といっても青山通りに100mもないような地点に出たので、すぐに青山通りに出た。表参道や青山通りのような大通りはなるべく早くパスしたいと思っていたのだが、人々の顔が笠の下にかくれ、ビル群が雨に霞んでいるのは悪くない風景である。ここでも、どしゃ降りは「街歩き・東京」の序章としては悪くないことの再確認なのだ。しかしこれは、東京が東京であることを露わにしない方が良い、ということではないか。どうも、「街歩き・東京」の趣旨からずれてしまっているようだ。何回も歩いて、私の感受の在りようが変わることを期待するしかないようだ。 青山通りから「青山5丁目」交差点を左折した道(Photo K)が骨董通りと呼ばれていることに気づいたのは、1ヶ月後くらいに写真を撮影場所と対応させて整理していたときである。骨董通りの名前の由来は知らないが、どうしても骨董店を見かけた記憶がないのである。 私は骨董趣味を持たないが、江戸末期以降の伊万里の器などを食器として使うのは好きなので、骨董店で安い器を買うことはある。私にとって、骨董店はいろいろな店のなかでも目につきやすいようにと思う。この辺を歩いたのは午前10時頃で、開店前でもあったのだろうか。今さら遅いが、良く見て歩かなかったことを反省している。 根津美術館を経由して国立新美術館へ行く、というのは当初からの計画であった。この時点では、根津美術館よりも国立新美術館の展覧会が優先したが、いずれ必ず来なければならない美術館である。根津美術館の日本画、古陶磁のコレクションはなんとしても一度は観ておきたい、と思っている。日本画の画集や古陶磁の写真集を見ていると「根津美術館所蔵」という記載をよく見かけるのである。 |
根津美術館の北側の白塀の道を抜けて、住宅地の道に入って、道なりに歩いて行くと、家の周りにたくさんの木を植えた住宅があった。庭というより建物にくっついた塀のように低木が植えられていて、その中に白萩がわずかに覗いていた(Photo N)。 泣くときは泣くべし萩が咲けば秋 山口青邨 [4] 仙台はとうに萩の季節は終わっていて、気の早い家では来年のために根本から萩の木を刈ってしまっている。仙台は寒いのである。いや、東京は暖かい、と私の場合は言うべきか。 |
ほんの少しばかりの花なのに、この白萩は目を引く。他の木々に紛れるようにほんのわずかの花が静かに咲いている、というのは美しく見える咲き方の形式のひとつかもしれない。 紅白の萩伯仲と見えにけり 阿波野青畝 [5] とはいうものの、大きな株に育てたいわゆる萩(紫色だけど紅萩)と白萩があれば、私はいつも紅萩が美しいと思っている。とくに道沿いの斜面に生えている紅白の萩のそれぞれが、それぞれの花びらを道に散らしているその色合いまでも花の景色に含めれば、紅萩が格段に美しいと思うのである。 青山霊園が次の目標で、Photo O のような狭い路地を二つ抜けて外苑西通りに出る。
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Photo J で、「雨に煙る都会の交差点」が気に入ったので、ちょっとかすめただけだが、青山墓地南端近くの三叉路交差点の写真を撮る(Photo P)。遠くのビルが見えないので、煙った感じがあまり出ていないが、この時間(10時40分)にはどしゃ降りというほどのこともなくなっていた。 Photo P の三叉路を北東の道に入り、青山墓地沿いを歩く。100mも歩かないうちに青山霊園の真ん中を縦断する道の入口(Photo Q)があり、その坂道の両側は桜並木なのであった。入るかどうか少し迷ったが、国立新美術館を出てから昼食にしようとすると少し時間が足りないので、やめにした。
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緩やかな坂道を上り終える頃、日本学術会議の建物が見えてくる。その手前の交差点を渡り、国立新美術館へのアプローチの道に入る。ここにはかつて東京大学生産技術研究所と物性研究所があった。その跡地に国立新美術館は設立されたのだ。物性研究所には、学生時代に(装置を借りて)実験をしに来たことがあり、後には研究会に出席するために来たことがある。研究所の内部の記憶はあるが、外郭との位置関係の記憶はまったく失われたしまった。当時の目的地へ着くだけの道歩きのせいか、たんに私の記憶力のせいか、判然としないけれども。
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