ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <街 1>


街歩き・東京 1 渋谷-乃木坂-原宿(1)  2009年11月11日

  東京には一度も住んだことはないし、とくに住みたいと思ったこともない。巷間よく聞くような「東京への憧れ」のような感情も、幼年期からこれまでまったくというほど生じなかった。その東京には、仕事(といっても学会、研究会や会議で、長くて5日、短くて日帰り)で行くことはたびたびあって、そのとき、地下鉄やJRで移動しながら、駅名を聞いては奇妙な感覚におちいることがしばしばあった。どの地名も「よく知っている」という感じになるのだ。しかし、「地名をよく知っている」という感覚がすべてで、それで終わり、それだけなのである。地名は「よく」知っているが、その土地はまったく見たこともないし、その地名を知った契機そのものも思い出せないのである。具体的なイメージはほとんど伴わないのだ。それでも「よく知っている」という実感なのである。

  東京の地名というのは、私にとって、あたかもシニフィエ(指示されるもの)のないシニフィアン(指示するもの)のようだった。テレビ、ラジオ、劇映画、映画ニュース、新聞、雑誌、とりわけ小説など、圧倒的な東京からの発信を60年以上も地方で受けとめてきたのである。その情報に含まれる東京の地名には、当然ながらシニフィエとなるべき内容も契機も含まれていたはずである。一つの地名に多種多様な、審級の異なるシニフィエが重なる、しかもその中心軸(座標原点というべきか)となるべきイメージも感覚もこちらにはない。シニフィエは異常に過剰であり、互いに錯綜し、混乱し、沸騰し、揮発して、シニフィアンのみが残った、などと考えてみるのである。

  シニフィエのないシニフィアンという感覚は、言語感覚がごく普通の人間(つまり、詩人でも小説家でもなく、ごくごく凡庸な言語感覚を持つ私)にとって、心の中で平衡感覚に狂いが生じたような気になるのである(ソシュールという言語学者はたいしたもんだ、と思ったりしたのは付け足しだが)。そんな地名の場所を、東京の具体を歩いてみたい、と何となく思ったのは、研究会での講演のため東京大学(本郷)へ向かう地下鉄の車内で、次々にアナウンスされる地名を聞いていたときで、12,3年前のことである。

  次のステップは、定年退職を数年後に控えていた当時、 フェルメール展や大琳派展など、いくつかの展覧会のために休暇を取って東京に出かけることがあって、そのときに、丸々一日を美術館で過ごすことはけっしてない、ということに気づいたことである。国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」を観ている時であったが、ふと〈「展覧会」+「東京の街歩き」〉を一日ですればよいのだ、と思いついたのだ。

 

 

 

   最後のだめ出しは、その「ハンマースホイ展」からの帰り、仙台駅でJRの「大人の休日倶楽部」の広告を見て、妻は「ジパング」、私は「ミドル」というカテゴリーで入会したことによる。そこでのサーヴィスの一つに、「12,000円でJR東日本管内、3日間乗り放題、指定6回までフリー」というのがあった。つまり、新幹線指定席で仙台-東京往復を三日連続が12,000円で済むというわけである。
  年2回ほどの企画であるが、1年に6日の東京の美術館と街歩きは、美術マニアでも散歩フリークでもない私にとって、そしてもっと重要なことには、まもなく年金生活に入る私にとって、いろんな意味でじつに手頃であったということである。そうして心は決まり、あとは定年退職を待つばかりとなったのである。

   川本三郎によれば、「町歩き」と「散歩」は違うのだそうである [1]

 

「散歩」はふだんの生活圏のなかを歩く。ご近所歩きである。「町歩き」は生活している町からどんどん離れていき、知らない町を歩く。「散歩」がムラ社会的とすれば「町歩き」は都市社会的である。雑踏をひとり歩き、路地や横丁に姿をくらます。匿名の個人になって都市のなかの溶けこむ。近代になって都市社会が成立したあとに生まれた、ひそやかな楽しみである。

 

  「ムラ社会」と「都市社会」が対概念のように使われているが、わざわざカタカナで書く「ムラ」の意味が私には理解できない。とはいうものの、「町歩き」と「散歩」の区別は頷ける。
  私は自分の暮らす仙台の街も良く「散歩」する。それに加えて最近は、暮らしたことのない宮城県内の町も犬連れで歩き回っているのである。このときの「町」は、仙台から近いとはいえ一応見知らぬ町なのである。しかし、都会でもない。どちらかと言えば、自然発生的にできた生活集落の発展型で、平成の大合併でむちゃくちゃになったが、かつては行政区分としての「町」とほぼ同じ地域を意味していた。
  
  そこで、私の場合は仙台市内の場合は「散歩」、宮城県内の町のときには「町歩き」ということにしたい。東京の場合は、広い都会の街区の一部を歩くので、「街歩き」と呼ぶことにしようと思う。「街歩き」としたいのには、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組がとくに私のお気に入りだということもある。

街歩きMAP

青線は歩いたコース。A〜Tの赤矢印はは、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。


Photo A 渋谷駅東口バスターミナル、首都高速3号渋谷線脇の歩道橋から。
歩道橋を渡り、明治通りを北上する。


  「街歩き・東京」の第1日目は、乃木坂の国立新美術館で「The ハプスブルグ」展を観ることと兼ねている。ウィーン、プラハ、ブダペストのハプスブルグ家収集の絵画展という触れ込みで、ブダペストだけは行ったことがなかったので見ておきたいと思ったのだ。歩く距離を考えると渋谷-乃木坂を往復するのが手頃と考えた。
  渋谷駅を東口に出ると、どしゃ降りである。もちろん天気予報は見てきているので、笠も持参していて、とりたてて騒ぐほどのこともないのだが、この初日がこれからを暗示しているのではないか、という気がしないでもない。たいして意義のある動機もないままの行動なので、そんなことを思ったりするのだ。


Photo B 明治通り宮下公園前交差点。ここを右折。

  明治通りを北に向かって歩き出すと、このどしゃ降りも悪くないという気持ちになる。私は人混みに弱いのである。学生時代、東京を見たいと思って2度ほど出てきたことがあったが、2度とも人酔いに困惑して早々に退散した記憶がある。なにしろ、大学の入学式に出ようと思ったのだが、新入学生とその親たち、クラブ勧誘の学生たちでいっぱいのキャンパスに驚いて、入学式に出ないで帰ってきた程度の人間なのだ。

  集団のはらむ熱気を怖るるはいつよりのこと旗はなびかふ
                             岡井隆 [2]

  どしゃ降りでも人は仕事に行かねばならず、みんな傘を深く差して急ぎ足になる。速度が速いと衝突断面積は小さくなる、というのは素粒子の世界のことだが、人も雨を気にして急ぎ足になると急激に個体間の相互作用が低下するような気がする。そんなふうに感じられて、私はすこしゆったりと歩いて行くことができる。



Photo C 美竹公園脇を北上。
  宮下公園前で明治通りを右折して緩やかな坂を上がり、さらに美竹公園手前で左折、公園西沿いを北上する。宮下公園にも入らず、美竹公園にも入らず、歩いて行く。街歩きとはどんなものか、方法とか形式とかをどうするかなどとついに考えもせずに始めたまま、「ただ歩く」のである。

  美竹公園西沿いの道から右折すると、Photo D のような建物が右手に見えてくる。アパートのようだが、時代が古ければ近代的下宿という可能性もあるだろう。いったいいつ頃建てられたものか、年代を推定するような知識は私にはないのだけれども、、何かしら懐かしい雰囲気がある。映画少年だった頃の映画に映る東京の建物の雰囲気、田舎の少年の見たモダンというもなのかもしれない。
  

Photo D

古くしっかりとしたアパート(らしい)。


   このモダン(?)アパート付近から左折して400mくらい道なり(Photo E)に進むとT字路の突き当たりである。金網塀の向こうは木立で、どんな建物があるかよくわからない。右に折れた道(Photo E)はまっすぐなのが少し物足りないものの、「散歩」の雰囲気が少し出てくるようだ(こんなどしゃ降りでは散歩でもあるまいが)。
     

Photo E Photo D のアパートを過ぎてすぐ左折、神宮前5丁目に入った地点。


Photo F Photo E の道をまっすぐ北上し、突き当たりを右折した道。
    地図によれば左手は神宮前公務員宿舎の敷地らしい。

  Photo F の道を200mほど歩いて左折すると、Photo G の道である。写真の右端に写っている桜の木は、樹肌から判断してソメイヨシノである。この道を2度折れて表参道に出る間にも桜の木があったが、それもソメイヨシノらしかった。ソメイヨシノは、小学校などの校庭に良く見られるように、明治近代化以降に植えられた桜である。しかもソメイヨシノは寿命が短いといわれている。仙台でも、江戸時代から続いているお屋敷の大木の桜にソメイヨシノはほとんどない。私はよく知らないけれども、この桜も、もしかしてこの地区の歴史を表象する一つかもしれない。


Photo G 青山通りと平行に走る北青山3丁目の細道。

  細い道を突き抜けて表参道に出ようと思ったのだが、突き当たりでだいぶ迂回しなければと思っていたら、ビルの脇から表参道の通りが見える(Photo H)。通行を禁止している雰囲気はまったくないので、そこをスルーした。
  抜け出た広い通りを、いま「表参道」と書いているが、じつはその時点では何となく広い通りという認識しかなかったのである。地図を見ながら、国立新美術館まで文字どおり右往左往しながら歩くことが目的で、途中の自分の位置確認はしているものの通りの名とかには気が回っていなかったのである。「東京の地名」の現実存在をなぞるという当初の目的は、乃木坂を目的として歩くということにすり替えられていた。これは、国立新美術館のなかでゆっくり椅子にかけて地図を見ながら気づいたことである(情けない)。
 

Photo H

ビル(青山パラシオタワー)脇の通り抜け。


Photo I

Photo F を抜け出た表参道、青山通りの交差点方向。


Photo J 青山通り、青山5丁目交差点から宮益坂上方向を見る。

  表参道といっても青山通りに100mもないような地点に出たので、すぐに青山通りに出た。表参道や青山通りのような大通りはなるべく早くパスしたいと思っていたのだが、人々の顔が笠の下にかくれ、ビル群が雨に霞んでいるのは悪くない風景である。ここでも、どしゃ降りは「街歩き・東京」の序章としては悪くないことの再確認なのだ。しかしこれは、東京が東京であることを露わにしない方が良い、ということではないか。どうも、「街歩き・東京」の趣旨からずれてしまっているようだ。何回も歩いて、私の感受の在りようが変わることを期待するしかないようだ。

  青山通りから「青山5丁目」交差点を左折した道(Photo K)が骨董通りと呼ばれていることに気づいたのは、1ヶ月後くらいに写真を撮影場所と対応させて整理していたときである。骨董通りの名前の由来は知らないが、どうしても骨董店を見かけた記憶がないのである。
  私は骨董趣味を持たないが、江戸末期以降の伊万里の器などを食器として使うのは好きなので、骨董店で安い器を買うことはある。私にとって、骨董店はいろいろな店のなかでも目につきやすいようにと思う。この辺を歩いたのは午前10時頃で、開店前でもあったのだろうか。今さら遅いが、良く見て歩かなかったことを反省している。


Photo K 「青山5丁目」交差点を左折。骨董通り。

  根津美術館を経由して国立新美術館へ行く、というのは当初からの計画であった。この時点では、根津美術館よりも国立新美術館の展覧会が優先したが、いずれ必ず来なければならない美術館である。根津美術館の日本画、古陶磁のコレクションはなんとしても一度は観ておきたい、と思っている。日本画の画集や古陶磁の写真集を見ていると「根津美術館所蔵」という記載をよく見かけるのである。
   そんなわけで、根津美術館の周りをグルリと歩いてみた。根津美術館の西の塀沿いには手入れの行き届いた金明孟宗竹(だと思う)が植えられている。金明孟宗竹とは、幹に黄色の縞斑が入る孟宗竹の園芸種である。個人的には斑入りの植物種は好みではない(それでも何種類かは育てている)が、この竹の規則正しい縞斑の入り方、その端正さはたいへん好もしいものがある。

Photo L

根津美術館前の金明孟宗竹。


 

ますぐなるもの地面に生え
するどき青きもの地面に生え
凍れる冬をつらぬきて
そのみどり葉光る朝の空路に
なみだたれ
なみだをたれ
いまはや懺悔をはれる肩の上より
けぶれる竹の根はひろごり
するどき青きもの地面に生え。
             萩原朔太郎「竹」全文 [3]

 



Photo M 根津美術館北を東進する道。

  根津美術館の北側の白塀の道を抜けて、住宅地の道に入って、道なりに歩いて行くと、家の周りにたくさんの木を植えた住宅があった。庭というより建物にくっついた塀のように低木が植えられていて、その中に白萩がわずかに覗いていた(Photo N)。

    泣くときは泣くべし萩が咲けば秋   山口青邨 [4]

  仙台はとうに萩の季節は終わっていて、気の早い家では来年のために根本から萩の木を刈ってしまっている。仙台は寒いのである。いや、東京は暖かい、と私の場合は言うべきか。

Photo N

白萩がまじる道路脇の植え込み。


   ほんの少しばかりの花なのに、この白萩は目を引く。他の木々に紛れるようにほんのわずかの花が静かに咲いている、というのは美しく見える咲き方の形式のひとつかもしれない。

    紅白の萩伯仲と見えにけり   阿波野青畝 [5]

とはいうものの、大きな株に育てたいわゆる萩(紫色だけど紅萩)と白萩があれば、私はいつも紅萩が美しいと思っている。とくに道沿いの斜面に生えている紅白の萩のそれぞれが、それぞれの花びらを道に散らしているその色合いまでも花の景色に含めれば、紅萩が格段に美しいと思うのである。

   青山霊園が次の目標で、Photo O のような狭い路地を二つ抜けて外苑西通りに出る。

Photo O

この路地を抜けて青山霊園南の道路(外苑西通り)に出る。


Photo P 三叉路交差点から西麻布交差点方向の眺め。

  Photo J で、「雨に煙る都会の交差点」が気に入ったので、ちょっとかすめただけだが、青山墓地南端近くの三叉路交差点の写真を撮る(Photo P)。遠くのビルが見えないので、煙った感じがあまり出ていないが、この時間(10時40分)にはどしゃ降りというほどのこともなくなっていた。


Photo Q 青山霊園に上る道を見て、右へ。

  Photo P の三叉路を北東の道に入り、青山墓地沿いを歩く。100mも歩かないうちに青山霊園の真ん中を縦断する道の入口(Photo Q)があり、その坂道の両側は桜並木なのであった。入るかどうか少し迷ったが、国立新美術館を出てから昼食にしようとすると少し時間が足りないので、やめにした。

  青山霊園の東沿いの道、外苑西通りから青山通りまでの道は緩やかな坂道である。「墓地下」というバス停があって少し不思議な感じがした。私が生まれ育ったような東北の小さな村落なら、墓地も寺も一つだけで、「墓地下」と呼んだら間違いなくその場所を同定できるだろう。でも、東京には無数の「墓地下」があるのではないか。「墓地下」は固有地名ではなく、一般地名ではないのか、思ったのである。もちろん、このバス停を通る交通機関の営業区域に「墓地下」がたった一つなら、なんの問題もないと言えば言えるのだが。しかし、その場合、東京人は、自分の生活の空間域をバス会社の営業区域に容易に重ね合わせられるのだろうか、などと田舎者が余計なことを思ってみたりしたのである。

Photo R

バス停「墓地下」から北を見る。

Photo S

青山霊園、墓地の一角。

  緩やかな坂道を上り終える頃、日本学術会議の建物が見えてくる。その手前の交差点を渡り、国立新美術館へのアプローチの道に入る。ここにはかつて東京大学生産技術研究所と物性研究所があった。その跡地に国立新美術館は設立されたのだ。物性研究所には、学生時代に(装置を借りて)実験をしに来たことがあり、後には研究会に出席するために来たことがある。研究所の内部の記憶はあるが、外郭との位置関係の記憶はまったく失われたしまった。当時の目的地へ着くだけの道歩きのせいか、たんに私の記憶力のせいか、判然としないけれども。

  とにかく、国立新美術館には到着したのである。

Photo T

国立新美術館への取り付け道路。



(2011/2/16)
                            
  1. 川本三郎「私の東京町歩き」 (ちくま文庫、1998年) p. 216。
  2. 「現代歌人文庫 岡井隆歌集」(国文社 1997年) p. 124。
  3. 「世界名詩集大成 日本II」(平凡社 昭和34年) p. 92
  4. 斎藤夏風編・著「蝸牛俳句文庫32 山口青邨」(蝸牛新社 2000年) p. 61。
  5. 「阿波野青畝全句集」(花神社 平成11年) p. 441。