ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <些事 6>

墓石

 

このようにしてオイディプスは、住まいを、おのれの最後の住まい(=墓所)を選ぼうとします。彼はそれを選ぶ唯一の者、それを決定すべき唯一のものになろうと願い、墓所のための唯一の者、命令に署名する者としての唯一のものになろうとします。ある選択を布告し、おのれの死と埋葬の場所に一人で赴くことに固執するがゆえに唯一の者に。彼はおのれ自身の葬儀を秘密裡に遂行します。
             ジャック・デリダ [1]

 

  また、ブレヒトは、「墓標を残すな/(……)/あとをくらませ! [2] と宣告するのである。
   神話ならぬ世界に住み、政治的な死を死ぬ予感のない私は、隠れなき平凡な墓を作った。もちろん、私は、私の娘をアンティゴネーにすることはない。そんな物語の不可能性を幸いだと思っている。

〔経過

  墓を建てた。正確には、墓石を新しくしたということである。

   妻は3姉妹の一番下で、3人とも結婚して姓が変わってしまい、義母一人がその姓を名乗るだけになってしまった。6人兄弟の末弟である私と、3人姉妹の末妹の結婚で、義母とは同居することになった。結婚に際して、私が姓を変えるという選択肢もあったのだが、養子という形式は私の母に遠慮だったのだ。

   私が生まれてまもなく、父は家族を捨て、戦争直後という時代も相俟って、貧しい時期が続いた。長兄、次兄、長姉、三兄の4人は、父のいる時期だったのでそれぞれ高校(旧制中学)に進んだものの、9才離れたすぐ上の姉は、中学(新制)だけ終えて就職せざるをえず、横浜に行った。
  年の離れた6番目の子として生まれた私には、養子の話がいつもつきまとっていた。母はそれに抗して、私を育ててきたのである。とくに高校進学の時期にあった話は、いくぶん深刻であった。大学進学を夢見ながら果たせなかった兄たちは、幼い私には「勉強さえすれば、大学までやる」と言っていたのである。そんなときに、夫婦で中学校の教師をしている人から申し出があった。私の学校の成績もよく承知していて、将来の教育の保証付きの養子話に兄たちは少しは心を動かしたらしいが、実現しなかった。

  そんなことがあって、母は私が婿養子になることを嫌がるだろう、と思っていた。いろんなシーケンスで逆らってきたのに今さら、ということだ。二人の姉が他家に嫁いでいる妻との結婚は、妻の母との同居は認めるが婿養子にはならない、ということで落ち着いたのである。イソノ家のマスオさんということである。そして、当然ながら妻の父祖の墓守という役割も、私たち夫婦のものとなったのである。

  私が死んだら、その後の処理は妻や子どもたちの裁量にまかせられる。私には、私という死者の扱いがどんなものであってもかまわない。自由にやってくれていいのである。しかし、彼らが〈人並みに〉墓をつくって埋葬しようと考えたら、私の死は彼らに負担を強いることになる。かといって、処分の仕方を指示したり、強要したりする権利など、私にはない。

 

ほれぼれと陽の差し込む日
ぼくのなまえをみがいているのは
だれのものともはんどくできない
ぼくのなまえをあらっているのは
あれはひまごかやしゃごだろうか

おはかのいしはあたたまり
おはかのうらにきざまれた
おおぜいのなもあたたまり
吐息みたいな草いきれの中
ほれぼれと陽が差している

       池井昌樹「ぼくのいないあかるさ」部分 [3]

 

   私は、この詩のように死んだ未来を想像したりはしない。ただ、こんなふうに想像し、あるいは強く願っていた(妻の)父祖たちがいたのではないか、とは思う。信仰を持たない私が私の死後にどんな思いも願いも持たないとしても、かつて強く願われたであろう父祖たちの思いを拒否したり、無視できるわけではない。どちらかといえば、大事にできるものなら大事にしたい、と考えている。

   義母の姓と私の姓がともに刻まれた墓として、異なった姓に引きつがれる墓として、作り直せばよい、ということになった。妻の父祖たちの思いをそっくりと残し、かつ私の墓として残された者に負担をかけることがない方法として、妻の父祖たちの墓を建て直すことにしたのである。
  墓地を歩くと、二つの姓が併記された墓石はいくつもある。墓が「個人」に属さず、「家」に属するという日本的な事情から言えば、我が家のようなケースはめずらしいことではないだろう。

  妻はクリスチャンホームで育ったが、妻の祖父の代までは仏教徒であった。区画整理で墓は市が造営した墓地に移されたが、その一画はもともとの寺の管理化にある。墓の建て替えについては、住職の了解が必要だったが、残された者はクリスチャンで、それを引きつぐ私は無信仰という事情を意外によく理解してもらえた。まわりは仏教徒の墓であることに配慮して欲しい、ということだけであった。
  「墓石屋さん」(と呼んでいいのかよくわからないが)へ行って、いくつかの墓石の写真やカタログをもらってじっくりと検討する、という段取りであったが、一枚のカタログを見て「これっ!」と叫んだ妻のひと声で墓の形が決まった。即決なのであった。実に簡単で、助かった。


  墓石ができあがった。墓なのに、狛犬がいる。(2010/12/20)

〔メルクマール

  墓石を立てるということにまつわる諸々をしていた時期に、「メルクマール」という言葉を思い出した。最近は滅多に使わないけれども、若いときには口癖のように使ったドイツ語で、たんに目印とかマークという意味にすぎないのだが、「革命のメルクマール」のように時代を画するような目印というふうに意味を大きく膨らませて使用していたのである。
  死は人生最大のメルクマールかなぁ、などと思ったのである。「《自我》と《私》というまさに普遍的な二つの限界においてはけっして再認されることのなかった個体による抗議」 [4] が実現するというのに、その一瞬先は何もないのである。時代や時間を画するというよりは、終端である死をメルクマールと呼んでいいものか、定義上矛盾があるように思えるが、そんなふうに思ったのである。

  それでは「死」以外のメルクマール、私の人生にとってのメルクマールは何だろう、何だったろう、と思い直してみても、やはり判然としない。妻は怒るかもしれないが、結婚も、子供の誕生もそうとは思えない。というより、過ぎ去ってしまったことで、そうであったと思えるものはないのだ。
  かといって、予期していたことがメルクマールであったというのもあるわけではない。15,6才くらいの時、「27才になると大人になれる」と根拠もなく思っていた。どうしてそんなことを信じていたのかまったく思い出せないが、それが確固とした27才のイメージではあったのだ。もちろん、じっさいにはそんな兆しは何もなかった。また、体が弱かった私は、40才くらいで死ぬのだ、と幼い頃からずっと信じていた。じっさいに40才での胃がん検診で引っかかり、胃を切除することになったとき、「やっぱり、これで終わりか」と予感の正しさに打たれたのだったが、何のことはない、生きのびてから25年にもなる。

  いちばん、メルクマールらしき出来事といえば、定年退職のような気がする。小学校あたりから勉強というものを始め、高校受験、大学受験、大学院進学と来て、職業として大学の研究者として生きてきた人生は、勉強とか学問とかで括ると、いわば「生のセリー」(フランス・ポストモダン思想ふうに気取れば)として「一繋がりの人生」と見えなくもない。
  「生涯一物理学者」と定めて、その一生を学問に捧げるという敬愛する先輩同僚がたくさんいるけれども、私はまったく逆に、そのセリーを定年をもって断ち切ろう、と定年が近づいてきたときに決意したのだ。特別な何ものかになりたいと思っていたわけではないが、そうすることで新しく開けること、新しい感受力が生成してくるのではないかと、期待していた。肉体的にも、精神的にも、少しずつ準備を進めて、定年を迎えようとしたのである。
  具体的にイメージしていたのは、山歩き、魚釣り、街歩きだったりするが、食事を作ったり、散歩したりという日常の些細なことすらが新しい感覚でできるような気がしていたのだ。つまりは、問題となっているのは私の気分なのだ。だから、退職の翌々日、坊主頭になったりしたのである。
  実際に定年退職となっても外形的に変化があるわけではないが、気持はまったく違うのである。ある種の拘束感がないのである。好きな時間に本屋に行ったり、図書館に行ったりできるのだ。そうだ、読みたい本が好きなだけ読めるようになったのだ。そのときになってやっと気づいたのである。物理学者として生きようと思い為したとき、気づかないままに捨てたもの、諦めたものがあったのだ。
   つまり、定年退職は若いときに断ち切られたセリー(これまでとは異なったセリー)の新しい始点だったのである。待ち構え、準備し、迎えたメルクマールとしての定年。

〔最後のメルクマール

  待ち構え準備していたのがメルクマールだったということになれば、死は決定的なメルクマールだろう。待ち構えたいわけではないが、待ち構えてしまう。墓石などを建てて、準備をしてしまう。フロイトの言う「死の欲動」というものに実感的賛意を私は持ち合わせていないが、死は断固とした出来事として私を待ち構えている。

    強秋
(こわあき)や我に残んの一死在り     永田耕衣 [5]

  つまり、死は残されたただひとつのメルクマールかもしれないのだ。

 

死ぬことを自由に考える。死ぬ時も自由だ。もしも肯定する時間がなくなっていたら、神のように否定する。こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている。
                     フリードリッヒ・ニーチェ [6]

 

   死は、哲学や宗教そして芸術の主要なテーマではあるが、どうもニーチェのようなわけにはいかないようだ(近代思想のビッグ3は、マルクス、フロイト、ニーチェだ、という向きもあるが、私はフロイトとニーチェとは相性が悪い。キェルケゴール、フッサール、マルクスと誰か言ってくれないだろうか)。「死ぬときも自由だ」というのは〈力への意志〉ならぬ〈意志の力)に依存する。力なき者の死を死ぬ、という予感しかない私はどう受け取ればよいのだろう。
  力なき私には、死は漠然とした恐怖としてつきまとっているもの、でしかない。存在しなくなることの恐怖というのではない。死んで存在しなくなってしまった〈自己〉を認識する〈私〉が存在しない、という奇妙さが恐怖なのである。

   小学4年の、もう少しで夏休みというころ、私は学校へ行けなくなった。本人としては、頭が痛かったり、体がだるかったりしたのだが、いわば登校拒否である。隣町で教師をしていた長兄が、心配する母に呼ばれてやって来て、「よくあること」と言って帰り、医者に診てもらうこともなかった。
  学校に行けない理由を、私自身は自覚していた。死の恐怖に打ちのめされていたのだ。私が死ぬことの恐怖ではない。人は死ぬのだという厳然たる事実に気づいた私は、母も必ず死ぬのだということにも気づいてしまったのである。「母が死んでしまう。いなくなってしまう」という恐怖で、心身に異変が出たのだ。
  体の調子が悪いということで学校に行かない私は、昼も布団に入って寝ていた。暑い昼過ぎ、浅い眠りから覚めると、家には私一人だけであった。母がいない、というだけでパニックになった私が慌てて玄関を飛び出すと、向かいの雑貨屋で、そこの女主人と笑いながら話しているのが店のガラス戸の向こうに見えた。暑い夏の真昼、白々と輝く路の向こうで笑っている母の顔はきわめて大写しで鮮明なのだが、すごく遠くにいるようにも感じた。それは静止画であって、安心したその瞬間のあとは覚えていない。8才の時のことである。まだ「死」は私のものではなかった。

     算術の少年しのび泣けり夏     西東三鬼 [7]

   それから52年、母は102才で亡くなった。そのとき、私は60才。準備していたわけでも構えていたわけでもないが、想像以上に心静かに送ることができた。「こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている」と言えるように私も年を経たということだったのだろうか。まさか……。

  とまれかくまれ、入るべき墓はできあがり、あとは私の死を待って〈なにか〉が完結する。

 

いつの日も生まれるに良き日であり、
いつの日も死に逝くに良き日である。

   アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリ(ローマ教皇ヨハネス二三世) [8]

 

 


(2011/9/13)

 

  1. ジャック・デリダ(廣瀬浩司訳) 「歓待について――パリのゼミナールの記録」(産業図書 1999年) p. 110。
  2. ベルトルト・ブレヒト(野村修訳)「世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集」(土曜美術社出版販売 2000年) p. 31。
  3. 「池井昌樹詩集」(思潮社 2001年) p. 75。
  4. ジル・ドゥルーズ(財津理訳)「差異と反復 下」(河出書房新社 2007年) p. 240。
  5. 「永田耕衣五百句」(永田耕衣の会 平成11年) p. 213。
  6. フリードリッヒ・ニーチェ(丘沢静也訳)「ツァラトゥストラ 上巻」(光文社古典新訳文庫 2010年) p. 149。
  7. 「西東三鬼句集」(芸林書房2003年) p. 9
  8. ハンナ・アレントによる引用。ハンナ・アレント(阿部齊訳)「暗い時代の人々」(筑摩書房 2005年) p. 113 (原典:Jean XXIII, “Discorsi, Messagi, Colloqui, vol. V, (Rome, 1964) p. 310)。