〔メルクマール〕
墓石を立てるということにまつわる諸々をしていた時期に、「メルクマール」という言葉を思い出した。最近は滅多に使わないけれども、若いときには口癖のように使ったドイツ語で、たんに目印とかマークという意味にすぎないのだが、「革命のメルクマール」のように時代を画するような目印というふうに意味を大きく膨らませて使用していたのである。
死は人生最大のメルクマールかなぁ、などと思ったのである。「《自我》と《私》というまさに普遍的な二つの限界においてはけっして再認されることのなかった個体による抗議」 [4] が実現するというのに、その一瞬先は何もないのである。時代や時間を画するというよりは、終端である死をメルクマールと呼んでいいものか、定義上矛盾があるように思えるが、そんなふうに思ったのである。
それでは「死」以外のメルクマール、私の人生にとってのメルクマールは何だろう、何だったろう、と思い直してみても、やはり判然としない。妻は怒るかもしれないが、結婚も、子供の誕生もそうとは思えない。というより、過ぎ去ってしまったことで、そうであったと思えるものはないのだ。
かといって、予期していたことがメルクマールであったというのもあるわけではない。15,6才くらいの時、「27才になると大人になれる」と根拠もなく思っていた。どうしてそんなことを信じていたのかまったく思い出せないが、それが確固とした27才のイメージではあったのだ。もちろん、じっさいにはそんな兆しは何もなかった。また、体が弱かった私は、40才くらいで死ぬのだ、と幼い頃からずっと信じていた。じっさいに40才での胃がん検診で引っかかり、胃を切除することになったとき、「やっぱり、これで終わりか」と予感の正しさに打たれたのだったが、何のことはない、生きのびてから25年にもなる。
いちばん、メルクマールらしき出来事といえば、定年退職のような気がする。小学校あたりから勉強というものを始め、高校受験、大学受験、大学院進学と来て、職業として大学の研究者として生きてきた人生は、勉強とか学問とかで括ると、いわば「生のセリー」(フランス・ポストモダン思想ふうに気取れば)として「一繋がりの人生」と見えなくもない。
「生涯一物理学者」と定めて、その一生を学問に捧げるという敬愛する先輩同僚がたくさんいるけれども、私はまったく逆に、そのセリーを定年をもって断ち切ろう、と定年が近づいてきたときに決意したのだ。特別な何ものかになりたいと思っていたわけではないが、そうすることで新しく開けること、新しい感受力が生成してくるのではないかと、期待していた。肉体的にも、精神的にも、少しずつ準備を進めて、定年を迎えようとしたのである。
具体的にイメージしていたのは、山歩き、魚釣り、街歩きだったりするが、食事を作ったり、散歩したりという日常の些細なことすらが新しい感覚でできるような気がしていたのだ。つまりは、問題となっているのは私の気分なのだ。だから、退職の翌々日、坊主頭になったりしたのである。
実際に定年退職となっても外形的に変化があるわけではないが、気持はまったく違うのである。ある種の拘束感がないのである。好きな時間に本屋に行ったり、図書館に行ったりできるのだ。そうだ、読みたい本が好きなだけ読めるようになったのだ。そのときになってやっと気づいたのである。物理学者として生きようと思い為したとき、気づかないままに捨てたもの、諦めたものがあったのだ。
つまり、定年退職は若いときに断ち切られたセリー(これまでとは異なったセリー)の新しい始点だったのである。待ち構え、準備し、迎えたメルクマールとしての定年。
〔最後のメルクマール〕
待ち構え準備していたのがメルクマールだったということになれば、死は決定的なメルクマールだろう。待ち構えたいわけではないが、待ち構えてしまう。墓石などを建てて、準備をしてしまう。フロイトの言う「死の欲動」というものに実感的賛意を私は持ち合わせていないが、死は断固とした出来事として私を待ち構えている。
強秋(こわあき)や我に残んの一死在り 永田耕衣 [5]
つまり、死は残されたただひとつのメルクマールかもしれないのだ。 |
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死ぬことを自由に考える。死ぬ時も自由だ。もしも肯定する時間がなくなっていたら、神のように否定する。こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている。
フリードリッヒ・ニーチェ [6] |
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死は、哲学や宗教そして芸術の主要なテーマではあるが、どうもニーチェのようなわけにはいかないようだ(近代思想のビッグ3は、マルクス、フロイト、ニーチェだ、という向きもあるが、私はフロイトとニーチェとは相性が悪い。キェルケゴール、フッサール、マルクスと誰か言ってくれないだろうか)。「死ぬときも自由だ」というのは〈力への意志〉ならぬ〈意志の力)に依存する。力なき者の死を死ぬ、という予感しかない私はどう受け取ればよいのだろう。
力なき私には、死は漠然とした恐怖としてつきまとっているもの、でしかない。存在しなくなることの恐怖というのではない。死んで存在しなくなってしまった〈自己〉を認識する〈私〉が存在しない、という奇妙さが恐怖なのである。
小学4年の、もう少しで夏休みというころ、私は学校へ行けなくなった。本人としては、頭が痛かったり、体がだるかったりしたのだが、いわば登校拒否である。隣町で教師をしていた長兄が、心配する母に呼ばれてやって来て、「よくあること」と言って帰り、医者に診てもらうこともなかった。
学校に行けない理由を、私自身は自覚していた。死の恐怖に打ちのめされていたのだ。私が死ぬことの恐怖ではない。人は死ぬのだという厳然たる事実に気づいた私は、母も必ず死ぬのだということにも気づいてしまったのである。「母が死んでしまう。いなくなってしまう」という恐怖で、心身に異変が出たのだ。
体の調子が悪いということで学校に行かない私は、昼も布団に入って寝ていた。暑い昼過ぎ、浅い眠りから覚めると、家には私一人だけであった。母がいない、というだけでパニックになった私が慌てて玄関を飛び出すと、向かいの雑貨屋で、そこの女主人と笑いながら話しているのが店のガラス戸の向こうに見えた。暑い夏の真昼、白々と輝く路の向こうで笑っている母の顔はきわめて大写しで鮮明なのだが、すごく遠くにいるようにも感じた。それは静止画であって、安心したその瞬間のあとは覚えていない。8才の時のことである。まだ「死」は私のものではなかった。
算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼 [7]
それから52年、母は102才で亡くなった。そのとき、私は60才。準備していたわけでも構えていたわけでもないが、想像以上に心静かに送ることができた。「こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている」と言えるように私も年を経たということだったのだろうか。まさか……。
とまれかくまれ、入るべき墓はできあがり、あとは私の死を待って〈なにか〉が完結する。
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いつの日も生まれるに良き日であり、
いつの日も死に逝くに良き日である。
アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリ(ローマ教皇ヨハネス二三世) [8]
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- ジャック・デリダ(廣瀬浩司訳)
「歓待について――パリのゼミナールの記録」(産業図書 1999年) p. 110。
- ベルトルト・ブレヒト(野村修訳)「世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集」(土曜美術社出版販売 2000年) p. 31。
- 「池井昌樹詩集」(思潮社 2001年) p. 75。
- ジル・ドゥルーズ(財津理訳)「差異と反復 下」(河出書房新社 2007年) p. 240。
- 「永田耕衣五百句」(永田耕衣の会 平成11年) p. 213。
- フリードリッヒ・ニーチェ(丘沢静也訳)「ツァラトゥストラ 上巻」(光文社古典新訳文庫 2010年) p. 149。
- 「西東三鬼句集」(芸林書房2003年) p. 9。
- ハンナ・アレントによる引用。ハンナ・アレント(阿部齊訳)「暗い時代の人々」(筑摩書房 2005年) p. 113 (原典:Jean XXIII, “Discorsi, Messagi, Colloqui, vol. V, (Rome, 1964) p. 310)。
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