マーガレットと金魚 |
これも、朽ちかけの脳味噌の話から始まる。 マーガレットの咲く日 「これは、岩田宏による短詩の全文で、この凝縮された詩形のなかに……」などと文章を始められたら、少しは形になるだろう。けれども、たいへん危ういのである。まず、本当に岩田宏によるものだろうか、という疑念がある。いくら探しても、私の本棚には「グアンタナモ」1冊しか岩田宏の詩集はない。そのなかにこの詩はないし、詩句を含んでもいない。 金魚の死ぬ日 ではなかったかと考えたりする。花が咲く、あるいは花が咲いている時間性と、瞬間で生じる死とを比べれば、花の咲く時間が死の瞬間を内包するであろうから、前者の構成が正しいだろう。けれども、岩田宏ともあろう者が、そんな常識的な詩を書くだろうか。瞬間の中に永遠を閉じ込めるような表現をしても良いのではないか、と混乱はどんどん加速するのである。 |
7,8年前の春の休日、犬と一緒に散歩しながら、西公園(桜ヶ丘公園?)と呼ばれる公園のなかに入っていくと「植木祭」ということで沢山の出店が出ていた。毎年、春と秋に2,3週間ほど開催されている。 |
少なくとも、マーガレットのなかに、私の記憶にあるような草立ちの種類と、庭の株立ちの種類とが含まれており、さらにフランス菊という花があり、その草姿は私の記憶にあるようなもので、区別は難しいというのが結論のようだ。世間の結論が出ても、私の記憶の〈マーガレット〉は、見捨てられたままである。 今日は三月二十三日
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「ほとけの日で挿木の日」という習慣があることなど、教えられもせず、思いもしないまま年を重ねてきたが、挿木、挿し芽、挿し葉は面白い遊びではある。 挿し芽をするとき、必要な本数だけ挿すということは、普通はしない。歩留まりや、挿し芽用ポットの大きさのせいで、たいていは多めに挿すことになる。当然、マーガレットのように全部が挿し芽に成功すると無駄な苗ができる。全部を庭に植えたら、我が家の狭い庭はマーガレットに独占されてしまうことになる。誰かもらってくれる人が現れるときはよいが、育ってしまった苗を処分するのは、なかなか困難な行いではある。 実生や挿し芽、挿し木そのものは実に楽しいので、毎年、毎季節、多すぎる苗を前にして悩むことになる。雑草は引き抜いて大量に殺しているのに、自分の育てた苗にはつまらない感傷で悩まされる。愚かな者の繰り返しの日々だ。
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