ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <花 3>

マーガレットと金

  これも、朽ちかけの脳味噌の話から始まる。

  マーガレットの咲く日
  金魚の死ぬや悲しき

 「これは、岩田宏による短詩の全文で、この凝縮された詩形のなかに……」などと文章を始められたら、少しは形になるだろう。けれども、たいへん危ういのである。まず、本当に岩田宏によるものだろうか、という疑念がある。いくら探しても、私の本棚には「グアンタナモ」1冊しか岩田宏の詩集はない。そのなかにこの詩はないし、詩句を含んでもいない。
  若いころ、「現代詩手帳」とか「詩学」とかの詩の雑誌を読んでいたが、雑誌のたぐいはすべて処分したので確認のしようがない。高校3年の時、後輩の1年が岩田宏の話を持ち出して驚いたことがあったが、その時、詩集を読ませてもらったのかも知れない。岩田宏の話題を誰かと話せるなどとは思いもよらなかった高校時代の話である。けっきょく、確認できないままなのだが、かといって図書館や何やらで調べるほどの生真面目さを持ち合わせているわけでもない。

  あげくの果てに、

  金魚の死ぬ日
  マーガレットの咲くや悲しき

ではなかったかと考えたりする。花が咲く、あるいは花が咲いている時間性と、瞬間で生じる死とを比べれば、花の咲く時間が死の瞬間を内包するであろうから、前者の構成が正しいだろう。けれども、岩田宏ともあろう者が、そんな常識的な詩を書くだろうか。瞬間の中に永遠を閉じ込めるような表現をしても良いのではないか、と混乱はどんどん加速するのである。

  とまれ、マーガレットである。マーガレットの記憶は、これも高校3年にさかのぼる。クラブか何かの活動で女子高校での集まりがあって、教室の窓際に席を取った私は、なぜかぼんやりと中庭の白いマーガレットの花を眺めていた記憶がある。
  それから後の年月は、少女コミック雑誌「マーガレット」やらなんやらのせいか、マーガレットという言葉を口にすることに気恥ずかしさを覚えながら過ごしてきた。「す~みれ~の、は~な~さ~く~ころ~」と歌われてしまったスミレも気恥ずかしいものだが、いまでは、スミレは「ビオラ」とか「パンジ-」と呼ばれ、そのニュアンスは様変わりである。

 庭のマーガレット
  (2007/6/9)

 庭のマーガレット、花の拡大写真
 (2008/6/15)

  7,8年前の春の休日、犬と一緒に散歩しながら、西公園(桜ヶ丘公園?)と呼ばれる公園のなかに入っていくと「植木祭」ということで沢山の出店が出ていた。毎年、春と秋に2,3週間ほど開催されている。

  草花を売るどの店にも、白やピンクのマーガレットが売られていて、小さなポット苗を一つ買ってみた。庭に植えると、どんどん大きな株立ちに育って沢山の花をつけたのだが、どうも私のマーガレットのイメージとは違う。花の色は、白以外もあるだろうし、もともとピンクを選んだのだから文句はない。草の形状がちがうのである。
  かつてのマーガレットは、30cmほどの茎を立て、その茎には一つくらいしか花が付いていなかったように記憶している。それが株立ちで、こんもりとしているのである。厳密には、1本の茎から枝分かれして、こんもりと拡がっているので、株立ちというのは正しくないと思うが、これは見た目のことである。

  ネットで検索すると、私が抱いていたイメージの花を「フランス菊」と呼んでいる人、「マーガレット・フランス菊」と併記している人もいる。二つは違う種と主張する人もいて、見た目で言えば、マーガレットの葉は春菊のように深く切れ込んでいて、フランス菊はそれほどでもないそうだ。40年も前の記憶の花の、その草の葉の切れ込みの深さを言われてもなぁ。たいへん悩ましいことになった。
  極めつきはこれ。フランスでマーガレットと呼ばれている花=フランス菊(和名)=Oxeye daisyまたはmarguerite(英語)、日本でマーガレットと呼ばれている花=木春菊(和名)=Paris daisyまたはmarguerite(英語) [1]。似てはいるが、別種というのが正しいらしい。


広瀬川堤防に咲いていた〈いちおう、フランス菊〉  (2009/5/27)

  少なくとも、マーガレットのなかに、私の記憶にあるような草立ちの種類と、庭の株立ちの種類とが含まれており、さらにフランス菊という花があり、その草姿は私の記憶にあるようなもので、区別は難しいというのが結論のようだ。世間の結論が出ても、私の記憶の〈マーガレット〉は、見捨てられたままである。
  それにしても、英語では二つとも同じmargueriteだということは、どういうことだ。イギリス人は、観察能力が私なみなのか、弁別能力が低いのか、などと憎まれ口をたたいてみてもしょうがない。わずかな種の変異を観察して「種の起源」を書き上げたのは、真正のイギリス人なのである。

  そうこうしているうちに、我が家のごくごく近くで〈マーガレットまたはフランス菊〉を見つけた。広瀬川の堤防の道沿いにずらーっと並んで咲いていたのである。どうして今まで見過ごしていたのだろう、と不思議に思うほど我が家の近くで咲いていたのである。「近く」などと言うより、「家の前」といったほうがいいくらいなのだ。「心疚しき者には、世界の真実が見えない」というわけか。
  その葉を見ると、切れ込みが小さい。長円葉にギザギザがあるていどなのだ。庭のマーガレットと比べると、まるで葉の形が違う。いちおう、フランス菊ということにしておこう。遠目で見るかぎり、こちらのほうが私の記憶の〈マーガレット〉に近い。とはいえ、40年ものあいだ、内部記憶装置に刻み続けてきた情報を修正するのは、たぶん難しいだろう。きっとあの〈マーガレット〉の葉の切れ込みは深かったに違いない、根拠はまったくないが、そういうことに決めた。

  庭に植えたマーガレットは、何とかそのままで冬を越して春を迎えた。もともと、こんなに拡がって株状になるとは思わずに植え付けたので、もう少し広い場所に植え替えた。ところが、あっという間に枯れてしまったのである。さいわい、不注意で折れてしまった枝の1部を挿し芽にしていて、それが現在の生き残りである。
  それから毎年、秋に挿し芽をしている。挿し芽はきわめて容易で、細かめの鹿沼土と振るったピートモスの用土を用いているが、全く失敗しない。挿した芽はすべて生き残る。私の経験のなかでは、もっとも簡単な部類で、写真のヘリクリサムと同じ程度である。挿し芽苗ポットは、2階にある東洋欄(日本春蘭、中国春蘭、寒蘭)用の無加温温室で冬をすごして、4月ころ庭に定植される。

  挿し芽苗を作り始めた2年目からは、庭のマーガレットはすべて冬に枯れてしまうようになった。ふしぎは1年目の冬越しなのか、毎年枯れてしまうことにあるのか、よくわからない。さしあたって、絶えないで我が庭にマーガレットは毎年咲いているのである。

  今日は三月二十三日
  仄かにこな雪がちらついて
  あたゝかな春の彼岸の中日です
  おいで妹たち
  僕らは挿木をしよう
  祖父さんやそのまたお祖父さんたちがやったやうに
  今日はほとけの日で挿木の日だ
  雪は僕らの髪の毛にかゝらう
  そして挿木はみづみづと根をさゝう

                    中野重治「挿木をする」全文 [2]

 

  「ほとけの日で挿木の日」という習慣があることなど、教えられもせず、思いもしないまま年を重ねてきたが、挿木、挿し芽、挿し葉は面白い遊びではある。
  挿し芽をするとき、必要な本数だけ挿すということは、普通はしない。歩留まりや、挿し芽用ポットの大きさのせいで、たいていは多めに挿すことになる。当然、マーガレットのように全部が挿し芽に成功すると無駄な苗ができる。全部を庭に植えたら、我が家の狭い庭はマーガレットに独占されてしまうことになる。誰かもらってくれる人が現れるときはよいが、育ってしまった苗を処分するのは、なかなか困難な行いではある。
  実生や挿し芽、挿し木そのものは実に楽しいので、毎年、毎季節、多すぎる苗を前にして悩むことになる。雑草は引き抜いて大量に殺しているのに、自分の育てた苗にはつまらない感傷で悩まされる。愚かな者の繰り返しの日々だ。  


 マーガレットの挿し芽 苗、となりはヘリクリ サムの挿し芽苗   (2010/3/19)


   ところで、金魚はどうなったのだ。
  いやいや、金魚はとうの昔に死んでしまいました。
   死んでフランス菊になったのです。

(2010/3/20)


  1. http://homepage3.nifty.com/TeaTime/k.marguerite.html
  2. 「中野重治詩集」 (小山書店 昭和22年) p.27