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〔宮城の町歩き 3〕 登米町 2009年12月10日 |
登米町は、かつて登米(とめ)郡登米(とよま)町で、平成の大合併で登米市登米町になった町である。行政区分としての町ではなくなったが、「宮城の町歩き」では、歴史的に形成されたまとまった生活基盤を持つ集落で、かつては行政の単位とほぼ同じであった地区を町と呼ぶことにしている(勝手に呼んでいるだけだが)。 「遠山之里」をベースとして、登米町を歩くことにする。駐車場を出て南に向かう。東西に走る県道36号を越えて、旧水沢県庁舎を右に見て、静かなお屋敷の並ぶ通りを歩く。 |
この地域が、明治の初めには「登米県」、「一関県」、「水沢県」とめまぐるしく行政区割りが変わったということは知らなかった。私の生まれた町もそんなふうであったのかもしれないが、まったく聞いたこともない。暮らし向きに関係なく、記憶され、記述されるべき歴史的意味が地元でも共有されていなかったということだろう。古い建物が大切にされるべき意味は、こういうところにもあるのだと思う。 立派な武家屋敷の門が並ぶが、庭の奥を覗くと茅葺きか藁葺きか遠目では判然としないけれども(常識的には茅葺きと思うが)、見慣れた懐かしい雰囲気の母屋が見える。幼年期に見慣れた大きな農家の母屋とよく似ているのである。庭の構造が農家とまったく違うのは、武家と農家ではそれぞれが庭に要求する機能の違いによるのだろう。農家では、廊下の前の庭は作業用の広いスペースでもあって、その廊下と庭は子供たちの遊び場でもあった。 Photo B は、「遠山之里」前の県道36号から南に300mあまり進み、道が折れる手前でふり返って見たものである。どちらから見ても、塀と門が続くばかりである。 道は右に折れ、すぐにまた左に折れ、いわゆるクランク状に歩いて行くことになる。角に「町屋ミュージアム」があり、その1部かどうか分からないが、なまこ壁の土蔵が二つ並んでいる。 「遠山之里」からこのあたりまでは、古い門と、屋敷塀が続く落ち着いた町並みで、観光スポットとして申し分ないのである。観光旅行ではないが、何か得した気分ではある。 |
屋敷町のクランク状の道を南に出ると、東西に走る道に出る。出た付近は県道15号になっている。この通りにはお屋敷もあるがほとんどは商店などの民家である。家のガラス戸越しに動き回る姿があって、私たちの動きに同調してガラス戸のなかを移動している。2匹のチワワである(Photo Da)。私のことはまったく見ていなくて、私の前を行く犬(イオ)に集中している。今日の初めての歓迎である。
県道15号に出てすぐ南に向かう道があって、そちらの道が県道15号に指定されている。その道に折れて南にまっすぐ進めば、登米神社である。遠くの高みに神社らしい杉木立が見える。神社に上ってみることにして、その道に進む(Photo E)。「○○」は高いところが好きということなのである。私は山登りも好きだ。 |
この通りにも、家は建て替えても古い門構えを残している家は何軒もある。そんな家の奥の方からこちらをじっと窺っている眼があった(Photo Ea)。すてきな自然石の上にあつらえた塑像のような筋肉質である。 県道15号は次の十字路で神社へ進む道から外れ、西に進む道になる。その角には、なまこ壁の大きな藏ががいくつか並んでいる。反対側の角には「ヤマカノ醸造」という会社があって、その裏にも大きな白壁の藏がある。この会社の「人屋根に叶」の商標は、私には馴染みのものである。そのせいで「人屋根」を「山冠」だとばかり思っていたのである。 その十字路を過ぎると、立格子の檻の中、小屋の中からぬっと出て来て、イオを見つめるシェパードがいた。私が声をかけても見向きもせず、私に連れを見ている(Photo Eb)。イオは相変わらずおとなしそうなふりをして、静かに見返している(典型的な「内弁慶外ミソ」なのである)。
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登米神社は、もともと八幡太郎義家に由来する八幡神社で、明治初期に稲荷神社を合祀して登米神社となった(と由緒書きに書いてあった)。神社の名前そのものが由緒を表さなくなると言うのは少しさびしい気がする。 鳥居脇には桜の木があり、石段の途中には、幹に歯朶をびっしりと背負う大樹がある。杉を背景とする石段と桜の花、そんな光景を想像してみる(桜の時期に再訪できる当てはまったくないのだが)。 境内に入ると、朱に塗られた高楼が目を引く。それは鐘楼なのであった。楼門も本殿も十分に古びていて風格がある。境内には斜面を背景に大小の石碑が配置されていて、しーんと静まっている。 登米神社の境内を西に抜けると、町へ下りる車道に出る。道の向こうには墓石が見える。養雲寺の裏手なので、その寺の墓地であろう。墓石の間に墓地へ下る道があったので、その道に入った。 山道の脇には三々五々墓が建てられているのである。古い墓も新しい墓もある。道端には黄菊も咲いていて、1級の散歩道なのであった。急斜面の下を通ったとき、見上げると斜面の上には古い小さな墓石(石碑?)が隙間無く並んでいるのが見えたりする。 |
下っていった谷も墓地で、雑木の混じる杉木立の中に、木漏れ日を受けて墓石が光っている。墓石はほとんど不規則に、場所によっては一部は規則的に配置されている。長い時間をかけてわずかずつ変容をとげたであろう企まざる構造の美しさが溢れている。人間が深く深く関わった場所で、こんなに感動するなどということは、この人生にずっとなかったように思う。
この墓地の景色は、あたかも死者たちから生き残っている者たちへの美しい贈り物のように存在しているのではないか。生きている者たちへの慰めを送りつづける遠い父祖たち。 |
墓地に見とれていたら、イオになんども急かされた。養雲寺の本堂の前を通り、たくさんの水子供養の地蔵尊(水子像?)を横に見て、養雲寺山門に出た。 養雲寺の山門を出る。山門の前を東西に走る道は、さっきの県道15号である。この道を西へ歩く。誰も住んでいない廃業したらしい商家が数軒ある一方、昔風の木造りの門塀の新築も見える通りである。
神社に近づくと、右手に1.5m四方で1面が開放された小屋があり、中に焼却炉らしいものが入っている。素焼き粘土製で、もしかすると陶器の焼窯かもしれない。ゴミの焼却炉のために立派な小屋を掛けるというのも変ではある。 |
神社から戻り、変則十字路角の大きな農家を回り込むように左折する。Photo M の真ん中右上の二階家を過ぎた辺りで、元気な歓迎を受けた。右に左に走り回っての歓迎である(Photo Ma)。
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さらに一軒おいて、今度は動きは少ないが、大きな声で歓迎される(Photo Mb)。この犬はイオではなく、私を見ている。怪しげな風体の男をにらみつけて吠えるのである。良い仕事をしているのだが、あまり長く吠えさせるのは迷惑であろうと、急いで通りすぎた。
犬吠の一天晴れし寒さかな 阿波野青畝 [3] 登米町には犬が多いのではないか。歩き始めて一時間もたたないのに、6匹の犬が挨拶してくれた。良い町である。 県道15号を越えた道は、スーパー農道なのかバイパスなのか分からないが新しい広い道である。立派な道路ではあるが、歩いて楽しむ道ではない。 |
中には、総二階の家があって、その二階にも廊下が回っているらしく、床から立ち上がるガラス戸が全面に張られているのである。木造建築の総二階というのは、最近では珍しいのではないかと思う。 この道沿いにも犬がいて、挨拶することになる。初めはおとなしい白犬である。伏せの姿勢でイオを見つめるだけである。二匹目は少し吠えたが、やがて注視することに専念したようだ。どこの家も庭が広くて、私たちとの間には距離があるため、どの犬にも気分に余裕があるらしい。
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やがて道はT字路となり、そこを右折する。道はすぐ広い道路に出る。その道も広い立派な直線の農道で、歩く魅力に乏しい。そんなことを思っていたら、今歩いてきた家並の裏を通るような細い道(Photo P)があったので、そこを歩くことにする。
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道は畑のなかを通っていて、「く」の字に曲がって進むと人家の前に出る(Photo Q)。 ここにもブロック塀一面に伸びたベニシタンが真っ赤に実をつけている。 道はT字路に突き当たり、右方向、町の中心に向かって進む。この付近の家は、ブロックであれ何であれ、きちんと塀囲いした家がほとんどであり、塀の中に庭木はよく手入れされている。 道は広い道路(八丁田の家並に入る前に少し歩いた道が北に続いた道)にでる。横切れば寺池の武家屋敷の方向に向かうのだが、いったん左折し県道36号の出会いの交差点まで行って、横断歩道を渡って戻り、町中心に向かった(Photo S)。 このまっすぐな道の走る町は、私の地図では「新町」となっているが、他の地図を見ると「前舟橋」となっていて、よく分からない。一般に直線上の道は散歩には不向きである。健康のためにがんがん歩くのだという準スポーツ志向の歩行向きだろう、などと心の中でぶつぶつ言いながら、この通りを歩き始めたのである。 |
ブロック塀、石塀に囲まれた住宅の続く道である。遠目に赤い色が見え、近づくとたわわに実のなるピラカンサスである。通りの右左に点々と見える。さっき歩いた八丁田地区ではベニシタンの赤が目立ったが、ここではピラカンサスの朱赤である。和風から洋風の色合いに変わっている。所々の柿の木には多かったり少なかったりするが、必ず残り柿がある。晩秋の色である。
しばらく歩くと、信号のある交差点に出る。ひだりては大きな黒松のある家で、右手は「年賀はがき」「たい焼」「パンダ焼」の幟旗が立つ店である。「パンダのショウガ焼き」などと浮かびあがるイメージに驚き、かつ懸命に振り払いながら、直進する。 |
「県営前舟橋住宅」を過ぎて十字路を一つ越え、千葉釣具店(欲しい小物があったので寄ってみればよかった、と後悔した店)を右に見て進むと、また十字路に出る。そこをを左折して県道36号に向かう(Photo U)。 この道に入ってすぐ左手に、土壁そのものの家がある。門と住居が一緒になったこのような建屋を長屋門というのではなかったろうか。門と一緒になった住居には使用人が住むのが普通で、長屋門があるのは大家である(あった?)ことの証左であろう。 道の突き当たりは教育資料館(旧登米尋常小学校校舎)である。犬連れなので中にははいらず、左手に眺めつつ、「遠山之里」に急いだ。正午を回り、空腹に急かされたのである。 「遠山之里」駐車場に戻り、イオを指定席(助手席)の犬用シートベルトに繋いで、私は昼食である。イオは車に乗ってさえいれば1,2時間は平気で待っているので、こういう時はまったく問題がない。外に繋いで、犬恐怖症の人を怖がらせることもないし、なによりも完璧な「車上荒らし」対策なのである。 「遠山之里」のレストランでの昼食はラーメンである。これも後悔であるが、「あぶらふ丼」というのがあったのである。油麩は、わが家の朝食の味噌汁の具の定番になりつつあるが、じつはそれ以外に食べ方を知らないのだ。「あぶらふ丼」をレパートリーにするチャンスを何の考えもなしに逃したのである(最近、おさんどんをはじめた私には必須の教習課程であったのに)。 |
午前中は南西部を歩いたので、午後は北東へ歩くことにする。それでも、先ほどは急ぎ足であった教育資料館前をもう1度歩くことからはじめる。
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教育資料館の前には、かつての小学校を囲んでいたであろう桜の古木が残っている(Photo Aa)。樹皮の感じからいえば「ソメイヨシノ」だろう。 本当によい天気である。こんな見通しの良いところに出ると、天気の良いことをあらためて知る。登米高校の体育館は道路向かいにあり、校舎と体育館の間を進んで、高校の敷地に沿って右に曲がる。校庭(グランド)が尽きるところで道は分かれ、左折して山辺の方に向かう。 目標は「森舞台」である。 |
小さな木製の行先案内にしたがって山の麓に沿って歩いて行くと、「森舞台」の施設が見えてくる。 「森舞台」という優雅な呼び名は、伝統芸能伝承館の能舞台に当てられている。森舞台の前の道は人通りもほとんどなく、道向かいは広場になっていて、犬を繋いでも支障がないと思われたので、ここは中に入って見ることにした。 私が生まれた町の八幡神社にも、能や神楽のための舞台があったが、私はそこで舞われる能は見たことがない。祭の時に神楽が奉納された記憶がうっすらとあるから、もう50年以上も前にそのような祭の行事は途絶えたのではないかと思う。 能舞台の正面には広い縁のある総ガラス戸の建物が向かいあい、稽古場らしいのだが、能上演のさいには良い客席となるのだろう。左手の野天の客席は、緩やかな段になっていて、玉砂利が敷き詰められている。そこから見る能舞台の背景は、孟宗竹の林の斜面でケヤキらしい大木(落葉していてよく分からなかったのだが)が混じっていて、文字どおりの森舞台である。 印象的だったのは、舞台床下の音響用の大甕である。舞台上の鼓に合わせて踏む足音に共鳴するのであろう。能や神楽のことはあまり知らないが、この甕たちが創り出す共鳴音を聞いてみたいと思う。 このような甕を使って水琴窟を造ることを生業とする知人がいて、何度かその音色を聴かせてもらったことがある。しかし、商売としては不調のようであった。水琴窟があるような日本庭園などというのは、私などにとっては入場料を払って見る(聴く)のがせいぜいで、個人の庭で造る人がいるとしても、私とは無縁の人であろうと思っていた。
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「森舞台」からまっすぐに出る道(Photo E)を歩くが、この道は一回りしてもとの道に戻ってしまう。左に行く道があったのでそちらに進む。小さな谷に出来たような坂の道(Photo F)である。坂道と曲り角は、散歩道の必須要件である。 登ってゆくと、右手の人家の奥からこちらをみている犬がいる。毛色も体型も大きさも、イオと似ている犬である。母屋のずっと奥、広い裏庭から見ているのである。犬は近眼なので、私たちをどのように認識したかは分からない。イオもその犬を見ていたが、イオもまたその犬を認識したかどうか分からない。遠くのものの場合は、犬はその動きから何ものかを判断するのだと思う。多分、2匹とも互いを景色に1部として、すぐに忘れてしまうのである。写真に撮って忘れないための手続きをする人間だけが、だんだん重くなるのである。
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道は地図には記されていない延長を通って、丘の尾根を走る道に出る。そのT字路を右折して少し行って、地図に記載された神社の方へ左折しようと思ったのだが、その道が見つからないのである。 さっきは記載されていない道を通ったが、今度は記載されている道がないのである。町歩きMAPには、「森舞台」でその内部を行きつ戻りつした様子がGPSトラックに示されているが、この付近のトラックが太くなっているのは同じ道を何度も往復して道を探したためである。 通りかかった婦人に尋ねると、知らないと言う。代わりに、近くにある「高台院霊屋」への道を丁寧に教えてくれた。
道探しは諦めて、ご婦人のお薦めにしたがって高台院霊屋へ行く枝道に入った(Photo H)。両脇に石が並べられている土の道である。この道の突き当たりを右に曲がるのだが、それは下の本道からまっすぐに上がってくる細道から続く道でもある。ただし、その細道はあまり利用されていないらしいことは、下草、落葉の様子からうかがわれた。 登米伊達家の霊屋は、「方三間」のごく質素なものである。印象に残ったのは不揃いの自然石を敷き詰めた参道である。どう表現していいのか分からないが、えもいわれぬ雰囲気がある。霊屋に向かう石畳の両脇には4基ずつの石灯籠が並べられていて、何となく藩主と家臣の関係をイメージさせるものがある。 |
道はどんどん下り、途中公営住宅らしい同じ造りの木造の人家を見ながら進むと、登米小学校の北東端に出る。つまり、この道は「遠山之里」駐車場脇の道につながるのである。 登米小学校脇を歩いて、「遠山之里」駐車場が見え出すころ、左、寺池城趾に上る道がある。ケヤキやツバキの坂道を上がり、広場(Photo K)を過ぎて階段を上がると見晴らしが開ける。 城趾を南に行くと下る道があって、この道が城趾に行く表の道らしい。屋根のある門を過ぎ、黒木の柱の門をくぐってふり返ると「寺池城址公園」の板が掛けられてあった。 |
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城址公園から東の道に下りると、北に向かう道は二つに分かれている。一方は、ふたたび坂を上る道で、「裁判所」「懐古館」の表示がある車道である。一方は、「公立病院」の案内表示があり、その道(Photo M の右の道は行き止まり、さらに右に下る道がある)を下ることにした。 |
地図に記載されていながら実際にはなかった道に相当する場所(Photo P)で左折して、北上川に向かう。
北上川には直接は行けなくて、いったん国道342号を北上する。国道は右にカーブしながら北上川の堤防の上を北上している。堤防道路と国道が一致する付近(Photo Q)から堤防を南下した。 Photo R は堤防からの北上川のパノラマである。写真は歪んでいるが、実際は、撮影地点付近が突き出しているような形の写真とは逆のカーブになっている。Photo S は下流、登米大橋の遠望である。 |
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堤防から町を見ると、登米町が城下町であることがよく分かる。国道342号と堤防の間に民家の敷地割りが、京都の町屋に見られるように、道に面した間口は狭いものの堤防まで細長く区切られているのが判然と見てとることができる。現在では、それぞれの家の建て方、土地の利用の仕方はまちまちではあるけれども、区割りそのものは整然となされているのである。 |
まもなく登米大橋というところに、「芭蕉翁一宿之跡」という石碑があり、隣には板碑の説明がなされている。芭蕉が石巻から平泉に向かう途中で登米に 宿をとったという「おくのほそ道」の記述によるものである。
戸伊麻が登米の当て字表現である。残念ながら句はない。石碑は、河東碧梧桐の筆であると記されていた。碧梧桐は虚子と並び、子規門下の双璧である。「碧梧桐は……登米とは深いゆかりがあったのである。」と説明がなされていた。これほどのゆかりがあっても、碧梧桐の句碑は登米にはないのである(「遠山之里」前の句碑案内によれば)。もちろん、句碑というものがどのような契機で建てられるものか、門外漢の私には分かろうはずもないのだが。 碧梧桐に敬意を表して、その2句を。 秀衡と芭蕉君にも寒さかな 河東碧梧桐 [10] 椀程な塚の上にも冬木かな 河東碧梧桐 [11] 登米大橋は国道342号の橋である。登米大橋は渡らず、右折して町中心へ向かう。歩き始めて4時間、そろそろ切り上げ時を考えはじめるのである。国道は橋からすぐの交差点で北へ向かって直角に曲り、先ほど北上川へ出るために少し歩いた道につながる。 |
十字路を国道が進む反対、左に折れて、午前中に歩かなかった道を歩いてみることにする。この通りは商店街であるが、白壁、藏造りの建物が並ぶ。薬局(ガラス戸には白壁、総二階の藏造りである。この通りにもある「ヤマカノ」も大きな藏造りの店である。それに並ぶ七十七銀行は新しいが、白壁、瓦葺きで調和をはかろうとしている。郵便局もまた、白壁、スレート瓦葺きの新しい平屋である。
年甲斐もなく少し感傷的な気分で警察資料館前を西へ歩を進める。この道は、その途中を午前中に少し歩いた県道15号である。この道は、商店と普通の民家が並ぶ通りであるが、中には白壁塀、木造瓦葺きの門に囲まれた屋敷もある。スレート瓦葺きの商家には、飾り破風のある屋根付きの門があったりする。 |
3ブロック歩くと、午前中に歩いた養雲寺の山門からまっすぐ北に進む道と交差する。ここを右折する。
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