説教「み子は来られた 〜 神の決断によって」
     ヨハネによる福音書 1章14節
     テモテへの手紙二 1章7節        牧師  瀬谷 寛 

 今年は、ブラジルのリオデジャネイロでオリンピックが開催された年でした。次回は東京が会場になる、ということも重なって、何かとスポーツが話題になったと思います。たくさんのメダリストが生まれ、なんだか、最近日本はスポーツが強くなったのか、と思わせられます。夏のスポーツだけでなく、冬のスポーツにも、この傾向は当てはまるように感じます。昨年、フィギュアスケートの羽生結弦選手が前人未到の得点を叩きだした、ということで話題となり、今年は四回転ジャンプの挑戦が話題となっています。大きな大会では、だいたい優勝しています。絶対王者、等と言われていました。けれどもそのような成績を残しても、けっしておごることなく、自分の目標を高く掲げながら、走り続けています。若いのに、堂々とした、すごい選手が現れたなあ、と思いながら、先日、インターネットを見ていて、驚きました。
 羽生選手は、四歳のときにお姉さんの影響でフィギュアスケートを始めたそうですが、当時の彼は、今の姿とはほど遠い“おくびょうな少年”だったそうです。
 「彼は二歳のときに小児ぜんそくにかかっていたため体力もなく、精神的にも今では想像できないほどもろかった。先生に怒られてしょっちゅう泣いていましたし、フィギュアをやめたいと漏らしていたこともありました。でも彼のそばにはいつもお母さんがいて、何かあるたびに『結弦ならできる』と励まし続けていました」。
 牧師であるわたしは、とても「おくびょうな」性格です。牧師という仕事をしていますけれども、こう見えても人前に立つのは、ものすごく苦手です。すぐに心臓が、ドキドキ、バクバクしてしまいます。新しいことをすること、新しい世界に挑戦することも苦手です。どちらかと言えば、外に出ず、家の中に閉じこもって好きなことをするのが好きなタイプの人間です。
 こんなわたしがある時、先輩の牧師の祈りの言葉に出会い、心にとまりました。こういう言葉です。「神さま、わたしたちが、『おくびょうの霊』にとらわれないようにしてください」。これまで、あまり聞いたことのない祈りの言葉でした。そして、それだけに、はっとさせられました。そして改めて気付かされました。それまでわたしは、「おくびょう」というのは、自分が持っているような「性格」のことだと思っていましたが、そうではない。それは罪なのだ、と。
 新約聖書のテモテへの手紙二の1章7節に「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」という言葉があります。神さまが、わたしたちに送ってくださるプレゼント、それは、たくさんのものがありますけれども、その中のあるものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊なのだ、といいます。
 「おくびょう」とは、自分の殻に閉じこもったままでいるところに現れる現象です。弱々しくて、情けない、恥ずかしい性格であるように思われます。けれども、おくびょうというのは、案外楽です。おくびょうなわたしがいうのですから、間違いありません。殻の内側に、閉じこもっていれば安心、安全、最高の居心地、そこから出ることは大変だし、面倒くさい、出て行きたくない。他者との関わりを持ちたくないのです。
 しかし、これは、自分にこだわり、自分を正当化する、自分だけが正しいと思う心につながります。他人のことなど、どうでもよい、そのような心につながってきます。そうなりますと実は、誰もが、この「おくびょうの霊」と関係があるのではないでしょうか。そしてまた、わたしたちの社会が病んでいるのも、社会全体が、この「おくびょうの霊」に支配されてしまっているからではないでしょうか。
 けれどもわたしたちには、もうすでに、神からおくびょうと対立し、おくびょうに打ち勝つ賜物が与えられています。それがイエス・キリストというお方です。この方の命、この方の霊です。
 ヨハネによる福音書に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉がありました。「言」とは主イエス・キリストのことで、要するに、神である主イエスは、わたしたちの目に見える「肉」のお姿を取って現れてくださった、というのです。神さまのご性質を持つ主イエスが、さびれた田舎の、人々からも顧みられない家畜小屋で、お生まれくださいました。この方は、神さまのご性質を持つ方であられますから、天上にいて、上から世界を眺めていることもできたはずです。けれども、その世界は、人々が、皆、自分の殻に閉じこもりながら、自分のことだけを考えて生きる、殺伐とした、暗い、闇のような世界です。そのところに、主イエスは、神がおられる天上というご自身の殻を打ち破って、世界に来てくださいました。わたしたちの住むこの世界に来てくださいました。いえ、わたしたちのいる社会の、最も低い人間以下、とも思われるような家畜小屋の、飼い葉桶に寝かせられるようなお姿で来てくださいました。
 まさか主イエスが、おくびょうである、と決めつけるわけではありません。けれども、大きな勇気が要ったに違いない、とわたしは思うのです。これは御子主イエスの父なる神の、決断です。父なる神が、「おくびょうの霊」に捕らわれた世界を、放ってそのままにしておかない、そのような大きな決断がなければ、起こらないことです。
 この聖書の言葉を残した使徒パウロは、「おくびょうの霊」に対して、「力と、愛と、思慮分別の霊」を置いています。自分の殻を打ち破る「力」と、自分以外の他者との関わりにおいて不可欠な、他を思いやる「愛」、そして、他者との関わりを保つために相手を正当に評価する「思慮分別」、主イエスが、十字架で死ぬべきわたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって、この上ない愛を示してくださいました。十字架に付けられて、そして甦られ、天に昇られ、代わりに霊を注いでくださった。わたしたちがもう、自分の殻に閉じこもって、おくびょうの霊にとらわれる事のないように、主イエスは、霊として、いつもわたしたちのそば近くに、いつも共にいてくださることになったのです。
 スケートの羽生選手は、お母さんがいつもそばにいて、「結弦ならできる」と声をかけておくびょうを乗り越えた、と言います。わたしたちには、ご自身がご自分の殻を破ってくださった主イエスが共にいてくださいます。そして「あなたならできる」と声をかけて励ましてくださいます。わたしたちのおくびょうから来る自分という殻を、主イエスに砕いてくだいていただきましょう。クリスマスは、わたしたちがもう「おくびょうの霊」から解き放たれていることを確認する時です。
(相双・宮城南地区婦人会「クリスマスの集い」礼拝説教より)

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