【説教】 2011年12月18日発行「聖き火」(166号)より

「思いめぐらすマリア」

創世記 第16章10〜11節、ルカによる福音書 第1章26〜38節
     仙台東一番丁教会牧師  保科  隆

 ある病院に入院されている方のお見舞いに行った時のことである。上から一階に降りて行くエレベーターが七階で止まりドアーが開いた。するとすぐ前の壁に大きな文字で次のような言葉が書かれていた。「がんばろう東北」「がんばろう宮城」「がんばろう七階」見て思わず笑ってしまった。エレベーターは七階からすぐに一階へ降りてしまったので、六階や五階に「がんばろう六階」「がんばろう五階」と書かれていたかどうかは確認できなかった。しかし、十年以上も前の阪神大震災以後の時も「がんばろう神戸」が合言葉であったのを思い出した。戦後の日本も戦争で亡くなられた方の分まで頑張ろうといって急速な経済成長を成し遂げてきたのではあるまいか。私共は、とにかく今まで苦しいことがあると、それに負けないで一つ思いになり「がんばろう」の掛け声のもとひたすら頑張ってきたのである。

 大きな国語辞典を引いてみて「頑張る」には、よい意味ばかりでないことに気づかされた。例えば、「自説を押し通す」や「頑固に意地を張る」という意味もある。頑張るは、「我を張る」が変化したものとの説もある。さらに「がんばろう」の大合唱について、このような指摘もある。「結局このような言葉は、思考停止させる心地よい言葉となって、人間にとってより本質的な不安に向き合わせない。今、何が問われているのかを隠蔽する言葉にしかなっていない」。かなり厳しい指摘であるが大切なことである。

 今日は2011年のクリスマスを覚えたい。そして、今年のクリスマスは3月11日に1000年に一度と言われる大震災があった年のクリスマスになる。このような震災があった年に、私共はどのような言葉をクリスマスの物語から聞いたらよいのかとの問いを持つ。聖書はただ私共に「頑張ろう」頑張れば何とかなると言うだけではない。今年の3月の大震災以後のテレビ放送では毎日のように同じ公共広告機構の映像が流されていたのを思い出す。金子みすずの「ごめんねと言うと、ごめんねという。こだまでしょうか。云々」の詩もあったが、「日本の力を信じている」という言葉もあった。何度も聞かされた。しかし1000年に一度の大震災以後の私共に求められているのは果たしてそういうことだろうか。日本の力をどう信じているのだろうか。おそらく今までと同様に頑張る力を信じているということに違いない。

 さて、聖書が記すクリスマスの物語はいつでも変わることがないものとして私共の前にある。従って今の私共が、いつも変わらないクリスマスの物語から何をどのようにして聞いていくのかが問われる。先ほどは、ルカによる福音書の第1章26節以下のところを38節まで読んでいただいた。29節に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶はなんのことかと考え込んだ」と書かれている。この言葉とは、天使ガブリエルがマリアに告げた言葉である。すなわち「おめでとう、恵まれた方。主があなた共におられる」である。幼稚園や保育園、それから教会学校の『聖誕劇』では、白い布をまとった子供の一人がマリアの側に近付き手を上げてこの言葉を語る。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。しかし、マリアにはこのような天使が語る言葉の意味が理解できない。また、子供ではそのようなマリアの内面の戸惑う様子は表現できないものがある。

 このときのマリアの年齢については、いろいろなことが言われる。はっきりわからないがおそらく十代であったと考えられる。したがって29節には「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何の事かと考え込んだ」と書かれている。戸惑いは当然のことである。またこのことによってマリアも普通の人間であることが示される。天使のお告げに戸惑うマリアは聖女などでない。しかし、むしろ大切なのはそこである。そのようにあたりまえに戸惑う人間が神から祝福をうけること、それがクリスマスなのである。特別な人間だけが祝福を受けるのではない。とっさに天使の言葉を聞いて平静であることが出来ずに戸惑うものが祝福されるのである。

 ところで、このときのことを受胎告知といい、多くの絵になっている。レオナルド・ダ・ヴインチのものや、フラ・アンジェリコ、エル・グレコの受胎告知などが有名である。絵には天使ガブリエルとアリアの二人だけが描かれている。マリアの表情に画家それぞれの解釈がこめられていて興味深い。それはともかく、ここで注意したいのは、「考え込んだ」と訳されている言葉である。口語訳も文語訳も「思いめぐらす」と訳している。

 マリアにとってのクリスマスはまず「戸惑う」時であり、さらに「思いめぐらす」時である。何について思いめぐらしたのか。「この挨拶」である。誰のどのような挨拶なのか。天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」との挨拶である。マリアはこの言葉について思いめぐらす。自分が何故恵まれた方なのかが理解できないからである。「おめでとう」は元の言葉では「喜べ」という言葉が用いられている。人間ただ、やみくもに喜べと言われても喜ぶことはできない。また、ここでもう一つ注意したいのは「主があなたと共におられる」で、これは「主があなたと共におられますように」ではない。つまりそのような願望の言葉ではないのである。天使ガブリエルが、ここでマリアに告げたのは、もうすでにあなたとともに神はおられます、「神の恵みの中にあなたはすでにおかれています」という現在のことなのである。「これからそのようになります」という未来のことではない。

 毎年、繰り返して読まれてきたルカ福音書のクリスマスの物語である。そこには天使の言葉を聞き戸惑うマリアがいる。さらに、天使の挨拶の言葉について「思いめぐらす」マリアもいる。どちらも同じマリアである。そして、私共は今年大震災にあい、今クリスマスの時を迎えている。そこで聞くべきクリスマスの言葉を与えられたいと願っている。しかし、どうなのか。クリスマスの物語が語っているのは、マリアのこれからの事ではない。もうすでに今、神がマリアと共におられるということである。マリアのクリスマスはそのようなものとして語られている。

 「通りへまで踏み出してくださる神」そして「私どものところに来て、私どもを呼び出してくださる神」をクリスマスには考えざるを得ないと言った人がいる。私共のとこにまで来てくださり、私共と共にいて下さる神が語る言葉についてマリアのように思いめぐらしながら、ただ頑張ろう、頑張れば何とかなるという掛け声だけでなく、心静かに祈りつつ大震災にあった今年のクリスマスを皆さんとともに祝いたい。

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